シャボン玉のブログ

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削除された姜先生の回顧録・第一章 その5 ボンネッコル生活

いよいよ、第一のお母様であった、崔先吉(チェ・ソンギル)女史が登場します。


韓鶴子オモニとしては、正式に結婚し、真の子女様まで生んだ第一の真の母の存在が許せなかったし、その真の母が再臨主の摂理を妨害した事実がおおやけになれば、
もしかすれば、韓鶴子オモニご自身もやがてそうなるのではと、
食口たちが不安になってしまっては困るので、
その崔先吉女史部分の削除指示を出されたのかもしれません。


「唯一絶対の真の母」を韓オモニが主張しているのに、
崔先吉女史という真の母が別にいたということが強調されては困るのです。
それがこの本が絶版になり、日本語版でその部分が削除された理由のはずです。


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私の証拠的生涯(=主を証しする私の生涯)
韓半島に降臨された再臨主

 姜賢實(カン・ヒョンシル)

第一章 成長と入教 
土塀(どべい)の家での生活の始まり


結局、9月になって凡川(ボムチョン)教会の伝道師の職から追い出されました。伝道師としての務めは果たせず、毎日お父様に会いに通うので、凡川教会で当然良くない噂が立ちました。教会の仕事をおろそかにして、神学校の勉強も熱心にしていないことも問題になりました。


最後には、その教会の責任者が教理的な質問をしてきました。堂会(=教会)がお父様の話を教理的に間違っていると批判しました。その教会の牧師は、絶対的な予定説を主張しました。神は、人間が生まれてから死ぬときまで予定されるので、私たちはただ信じて従えば良いのだと言いました。


しかし、私は人間に責任分担があると言いました。私たちはただ信じて従うこともみな責任であり、神様が予定された通り、私たちが行わなければ神様の御旨を成すことができないと言いました。人間がするべき5パーセントの責任分担があるということを言うと、その牧師は、「教理的に姜伝道師が言うことは間違っています。私たちの神学校では、カルビンの予定論を絶対的に信じています。絶対予定論を信じないのならば、これ以上伝道師の職を遂行させることはできません。」と言いました。教会にこれ以上いることのできない状況になったのです。


凡川教会で伝道師の生活をやめたのは、風がいっそう冷たくなっていた頃でした。それまで私は教会の宿所で生活していたので、その任職していた教会と生活していた空間すべてを失ってしまいました。ですから行き場のない身になってしまいました。そんな私にお父様は、「荷物をまとめてこちらに来なさい」と言われました。結局、私はお父様がおられた土塀(どべい)の家に入って生活しました。


神学校の夏休みが終わって新学期が始まっていたのですが学校には行けませんでした。そのとき私は3年生でした。神様の仕事をするために入学した学校にこれ以上通うことができなくなったのは、残念なことでしたが仕方がありませんでした。


それで、玉世賢(オク・セヒョン)オモニが私にどこの学校に通っていたのかと尋ねました。それで高麗神学校に通っていたと言うと、笑うのです。「なぜ高麗神学校と言ったら笑うのですか?」と行ったら、「私の夫も高麗神学校で勉強をしています」と言うのでした。「本当ですか?どなたですか?」と言うと、「禹(ウ)ファソプ長老です」と言ったのでびっくりしました。


禹(ウ)長老は、私が神学校に通っていたとき、親しくした人でした。私は神学校で最も若い学生でしたし、禹長老は最も年輩だったのです。勉強をしてわからない漢字があるときは、禹長老のところに行って聞いたりしました。


「ああ、そうですか。私がよく知っている方ですよ」
「おやまあ、そうなの?どれほど夫が反対をしたかわかりません」と言って一緒に笑ったことがあります。


後で、ソウルの奨忠洞(チャンチュンドン)に教会があった時代に禹長老に一度会ったことがあります。禹長老は玉世賢オモニと離婚をするために訪ねてきました。それから禹長老は私に、「私は妻を愛していました。今も愛していますが、信仰的に合わないので、今から到底一緒に住むことができない状況なのでこのように離婚をすることにしました。」と言いながら、「それでも私の心が安らかのは、姜先生がこの道に入っているということです。ここでこのように会えたので、少し安心しました。」と言いました。


ボンネッコル生活


ボンネッコルの土塀小屋に住んでいた時に、最も長くおられた方は金元弼(キム・ウォンピル)先生でした。この方は毎日、午前中に米軍部隊に仕事に出て夜遅く帰ってきました。いつも同じ真っ黒なジャンパーを着て、表情も変えずに通っていた本当に静かな方でした。いつも無言で、自分の仕事を黙々と続けましたが、お父様には絶対的に従っていました。


数年の間、お会いしても一緒に話をしたことがあまりありません。いつも同じ姿で米軍部隊に通勤しながら精誠を尽くされていた誠実な方でした。そして帰宅して帰って来られて、米軍の家族の肖像画を描く仕事をしました。お父様は金元弼先生を助けるために人造絹糸(けんし)で織った布に糊を塗って枠に貼り付けることをされました。糊を塗って枠に貼り付けた後、陽に当てて乾燥させると平らになります。その後、お父様は顔を描き易くするため鉛筆で線を引いておかれます。私もお父様を助けるために、その作業をしましたが、金元弼先生とはあまり話はできませんでした。あまりにも言葉がなく、私には静かに目礼で挨拶だけしました。


そして、玉世賢オモニが一緒にいて、時々お母さんの娘さんたちが来たりしました。また嚴德紋(オム・ドンムン)先生が時々主日(=日曜日)に訪れて来ました。嚴德紋先生はボンネッコルの土塀の家のみすぼらしい部屋に似合わない洋服一着をお父様に捧げました。


その洋服は嚴(オム)先生がソウルから釜山に避難した時に持ってきたものでした。嚴(オム)先生は避難の時にやっと持って来た洋服をお父様に差し上げるほど、お父様を尊敬し大切に考えていた方でした。その洋服のおかげで部屋がきれいに見えました。薄い茶色地に赤い縞のある、洗練された洋服でした。


嚴(オム)先生は主日になれば、いつもお父様がおられる所を訪問しました。そして歌でお父様を慰労し喜ばせて差し上げました。澄んだ声で、「夢金浦打令(モングムポタリョン)」、「白鷺(しらさぎ)よ泣くな」、「園の春の歌」などを歌ったりしました。その歌を聞いたお父様の表情は大変喜ばれているようでした。


李奇完(イ・ギワン)勧士(クォンサ)も時々来ました。李奇完さんは、お父様が下宿されていた黒石洞(フクソクドン)の宿の主人の姉でした。この方は金百文(キム・ベンムン)氏に従っていた方でしたが、お父様の御言葉を初めて聞いた時、「この方は、韓国の偉大な復興師になるだろう」と思ったと言いました。


ところである日、お父様が祈っている姿を見て深い感動を受けました。お父様がどれほど涙をたくさん流しながら祈られたのか、その姿を見ても感動と恩恵を受けたとのことでした。そして、後で祈られた場所を見ると、雑巾で拭かなければならないほど涙が一面に溜まっているのを見たというのです。それで、自然に頭が下がり尊敬するようになったと言いました。


お父様は当時高校生だったので、学校に早く行かなければなりませんでした。それで李奇完(イ・ギワン)さんは、最初にお父様のご飯をよそって、それを持っていって差し上げたということです。夫が見ると誤解されやすいことでした。たとえ、お父様は十代後半の少年であり、李奇完さんは三十代の主婦だったとしても、格別に世話をし、侍ることはおかしなことだったのです。だから夫に虐待もたくさん受けて、棒で殴られた日もあったと言いました。


ボンネッコルの土塀の家の時代には主日(聖日)礼拝をしましたが、特別な形式はありませんでした。ある日は誰も訪ねて来なくて、お父様を中心に玉世賢(オクセヒョン)オモニと金元弼(キムウォンピル)先生そして私の四人で礼拝を捧げた日もありました。そんな日は我知らず力が抜けました。世界の人類を救う真理の御言葉であるなら訪ねて来る人が多くなくてはいけないのに、三、四人が座って礼拝を捧げるので、果たしてこの御言葉でキリスト教の統一、世界統一が成されるのだろうかという思いがする時もありました。


家庭的苦難の十字架


1952年11月中旬、秋の終わり頃でした。その日はひどく寒かったです。顔が白くて綺麗な30代の若い婦人が一人の男の子を連れてボンネッコルの土塀の家を訪ねて来ました。その若い婦人は、灰色の孔雀ニットのセーターに紺のズボンを着て運動靴を履いていて、男の子は、五色の服をきれいに着ていました。


包みを一つ持っていたのですが、とてもこわい雰囲気でした。来るやいなや、靴も脱がずに部屋の中に入って行き、お父様に向かって語調を高めながら自分が生きてきた恨みをぶちまけました。その方が崔先吉(チェ・ソンギル)夫人でした。7歳の息子を連れてお父様を訪ねて来たのでした。


   崔先吉(チェ・ソンギル)女史


話す内容を聞いてみると、7年の間一人の息子を育てながら、いろいろな苦労を極めたようでした。大事な息子を良く育てようと商いまでしたという話を聞いて、私も心が痛みました。そうであってもお父様が無事に生きていながらも手紙を一通も出さなかったことがわかったので、同情されてあまりある状況でした。そんな様子だったので、誰もが崔(チェ)女史を落ち着かせることはできませんでした。


私は、お父様が、息子が一人ソウルにいると言われたことを聞いたことがありました。しかし、そのような状況が起こるとは想像もできませんでした。目の前が真っ暗になるような感じでした。


崔女史が来たので、私はもはや小さな土塀の家でいっしょに過ごすことができなくなりました。私はその日のうちに近くに住んでいた食口のおばあさんの家に行って寝ました。


しかしその家でも長くお世話になることはできないので、故郷の家に帰ることになりました。当時家は榮州(ヨンジュ)から店村(ジョムチョン)に引っ越しをしたので、店村の田舎の家に帰りました。しかし、どこに行って誰に会っても、神の御心を知っている人に会うことができず、探すこともできませんでした。寂しく苦しい日々を過ごしました。


その後、お父様から何回か手紙をいただきました。内容は、二千年前にイエス様も家庭的に困難な問題を負って言葉に言い表せない苦衷(くちゅう)を経験したのですが、お父様もそのような道を歩んでおられるという内容であり、神の御旨は必ず成されるので、遠い後日を思いながら我慢して行こうという内容で、励ましの手紙でした。そして釜山に来ないで熱心に伝道するようという内容でした。


しかし、封筒の住所がボンネッコルではなく、水晶洞(スジョンドン)になっていました。私がいない間に、明らかに何かあったという思いになり、これ以上じっとしていることができなくなりました。お父様がどれほど多くの苦衷(くちゅう)の中におられるのかが心配にもなり、お会いしてお話を聞けば、詰まった心が少し安らかになるだろうと思いました。


1953年1月にお父様にとても会いたくなり、店村(ジョムチョン)から尚州(サンジュ)までバスに乗って行きました。尚州(サンジュ)から汽車に乗ろうとすると、第二次緊急通貨金融措置(そち)、すなわち、第二次貨幣改革が起こりました。戦争中に乱発された通貨による物価上昇を抑えるために100ウォンを1ファンに改革するというもので、汽車の切符を買うことができませんでした。それで、家に再び戻ってきました。


旧暦の1月6日(陽暦2月19日)、お父様の誕生日のときは必ず行かなければならないと考え、餅を前もって準備してその前日に釜山へと発ちました。2月なので気候がとても寒かったです。そのときは店村(ジョムチョン)から金泉(クムチョン)までバスに乗って行って、金泉(クムチョン)から釜山(プサン)行きの汽車に乗りました。


しかし、汽車が遅れて釜山に到着した時はすでに夜12時が過ぎた時刻でした。通行禁止時間だったので、駅員が手のひらに大き目の判子を押してくれました。釜山鎮(プサンジン)駅からボンネッコルまではかなり遠い距離でした。


水晶洞(スジョンドン)は初めて行くところなので、地理も分からず、既に通行禁止時間だったので仕方なくボンネッコルに向かいました。釜山鎮駅から凡一洞(ボムイルドン)までかなり遠い距離でした。トランクを一つ持って徒歩でやっと土塀の家に到着しました。お父様がひょっとしておられないかと思って行ったのですが、おられませんでした。


行ってみると土塀の家は崔女史だけが住んでいました。部屋に入ることができなくて、部屋の前に張ってあったテントに入りました。台所として使用するところでしたが、そこでその夜を過ごして朝に水晶洞(スジョンドン)に行かなければならないと思っていました。ところが、その夜はとても寒くて、足が凍えて耐えることができませんでした。結局足をばたばた踏みならし、その夜を明かしました。


そしてその夜はまた、生まれて初めて、口にすることもできないひどい悪口をたくさん言われました。私が店村(ジョムチョン)に帰った後の崔先吉(チェソンギル)夫人は心が穏やかでなかったようでした。7年間苦労の末に探した夫でしたが、お父様は家庭を顧みられるよりも神を愛し、神の御心を成すことに狂っておられたので、さらに多くの苦衷を味わったようでした。お父様を夫として、また子供の父親としてのみ考えようとしていた崔(チェ)女史でしたから、その凶悪さは時間が経つにつれ、ひどくなるばかりでした。結局、お父様は水晶洞(スジョンドン)に身を避けられ、崔(チェ)女史はお父様がどこにおられるのかも知らずにいる状況でした。


そのような状況に私がお父様にお会いしようと訪ねて来たのですから、どれほど怒りがこみ上げたでしょうか。私はキリスト教の家庭で育ったので一度もののしられたことがありませんでした。親が私を育てるとき、「このアマ!」というような言葉を一度も聞いたことがありませんでした。しかし、崔女史は私に、ボンネッコルに到着して早朝四時に通行止めが解除されてそこを離れるまで、四時間あまりずっと絶えることなく罵倒を浴びせました。


崔女史は、お父様がどこにおられるのか分からずもどかしいので、なおさらそのようでした。私にお父様をどこに隠しておいたかと、いくら探してもどこにいるか知ることができないと、すべての悪口という悪口を言い尽くしました。


私はマタイの福音書5章10節「義の為に迫害を受ける者は、さいわいである、天国は彼らのものであるからである。わたしの為にあなたがたをののしり、また迫害して偽りであなたがたを逆らって、すべての悪の話をするときには、あなたがたにさいわいである、うれしがり喜べ。天からほうびを受けるものが大きい」という言葉を思い出しながら何も答えず、ひどい罵倒に堪(た)えつつ、黙々とテントの中で夜を明かしたのでした。


通行禁止解除時間である四時に、そこを去って凡一洞(ボムイルドン)バス停で水晶洞(スジョンドン)行のバスに乗りました。ところが、早朝に若い女性が大きなトランクを持って降りてくるのを派出所の警察官が見つけて、後をついてきました。水晶洞(スジョンドン)で降りたときに、その警察官は私を見て派出所に行こうと言いました。仕方なく警察官の後について派出所に行きました。


その後、警察官は私の身分を知ろうとカバンをひっくり返しました。私はそのときとっさに、お父様が送ってくださった手紙をコートのポケットから取り出し、袖の中に隠しました。もしかしたらコートのポケットから手紙が見つかった場合、何か面倒なことが起こるかもしれないと思ったからでした。警察官は神学校の学生証、住民登録証を見て疑いを解きました。荷物をひっくり返しても聖書と賛美歌しかないので、これで帰りなさいと解放してくれました。
派出所を出て水晶洞の住所を持って家を探しましたが、到底見つけることができませんでした。仮屋住所だけなので見つけること自体があまりにも困難でした。この路地、あの路地と、通りながら聞いてみたのですが、みな知らないと言いました。


ホサナ、新しい主が来られる


切ない気持ちでしばらく歩き回っていたのでしたが、李耀翰(イ・ヨハン/李ヨハネ)牧師が現れました。李牧師は私を見て大変喜びました。
李牧師が私をお父様がおられる家に案内してくれました。その家の近くを何度も行ったり来たりしたのですが見つからなかったところでした。到着してみると朝10時頃でした。



そこもやはり二坪にも満たない粗末な部屋でした。水晶洞(スジョンドン)の裏山の下に位置しており、多くの避難民と貧民が住んでいる町でした。その家には、お父様と金元弼(キム・ウォンピル)先生、玉世賢(オク・セヒョン)オモニ、李耀翰(イ・ヨハン)牧師そして李スッキさんという食口が一緒に住んでいました。李スッキ食口が朝食を作ってくれて、それをいただきました。お父様の誕生日を祝賀するために持って行った餅を差し上げるとお父様はおいしいと言われながらたくさん召し上がりました。


私はお父様にその間伝道しながら起こった出来事と書いておいた文を報告しました。1953年2月8日の主日に、私一人で御旨を知っていることがあまりにも切なく、このように書いておいたのです。


「私の生きるすべての中心と目的は、御旨の為の生活を願います。
神様の御旨が地に現れ、父が望まれるその世界、今日も目の前に描いてみると
望みはさらに大きくなります。ああ、遠くおられる栄光の主が今日も慕わしくなります。他の人が知ることのできないこの道、栄光の勝利を願って歩いて行く私自身が
もっと力強い歩みをして御旨を実現しなければなりません。
宇宙の万民たちが私の知っている世界を求めて信じるときには、
それはどれほど喜び、嬉しがるだろうか?
今、私は本当に孤独で寂しいです。
しかし、真のお父様を私が見てみると、ハレルヤ、栄光だ!
私の願う望みを、天の父よ、成して下さい。
父よ、私から離れたら、私は生きることができません。
この世の汚い人間的愛、また世俗的な愛を私は望んでいません。
神様の愛を味わい、天の一筋の命ある愛を受けようとしますので、
この愛が私の命となり、私の所望(しょもう)となっていく将来に
光明(こうみょう)の光になってください!
険山峻嶺(けんざんしゅんれい)のような困難な十字架の苦痛を
感謝することで克服することができるようにして下さい!
十字架で勝利された主よ!十字架の苦難に私も同参させて下さい。アーメン!」


私はあまりにも切なくてこのように一人で文を書きながら、神様に訴えましたとお父様に報告しました。
そして烏川(オチョン)に住んでいたある勧士(クォンサ)の話もしました。


慶尚北道(キョンサンプクド)山陽面(サニャンミョン)烏川(オチョン)に住んでいる勧士(クォンサ)が一人がいました。私はその方を烏川(オチョン)オモニと呼びました。私はその方に神の摂理がどこで、誰を中心として、どのように成されるのかを話しました。すると、烏川(オチョン)オモニが祈りの中で直接、「​​ホサナ、韓国の地に主が来られる。天が低くなり、地が湧き、ホサナ、新しいエルサレムが韓国でなされますように」との啓示を受けました。烏川(オチョン)オモニはこのような内容を話しながら、「神様は私だけを愛してくださっていると思ったのですが、私より姜伝道師をより愛して下さるようです」と私のことを証ししてくれました。


その話をお父様にご報告するととても喜ばれました。「賢實(ヒョンシル)があまりにも寂しがるから、神様が証ししてくれる役事をされたんだな」と言われました。そうして、「神霊の高い人、また、霊通した者たちは私達の側であり、私たちを証しするだろう」と激励してくれました。


また、私は烏川(オチョン)オモニに、主がどのように来られるのか祈祷してみなさいと言いました。祈祷の後、烏川(オチョン)オモニが答えるには、「主は既に来ておられるが、このことを姜伝道師は既に知っているのである。韓国の地に主は既に来られ、闇の谷に主の明るい光がさしてくるだろう、と答えがきました」と自信を持って「既に来られた」と言われました。


この報告を受けたお父様の表情が非常に明るかったです。このような報告を、午後四時まで六時間ご報告しました。報告をすべて聞いた後、お父様は、「この世は暗く、知ることができないが、霊界はみな知っている。特に霊通する人々は自分でもわからず、また何を意味するのかも分からないが、この御旨を認めているので勇気を失わずに戦おう!」と話してくださいました。




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