シャボン玉のブログ

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削除された姜先生の回顧録・第一章 その6 崔先吉女史と痛哭のアリラン峠

私の証拠的生涯(=主を証しする私の生涯)
韓半島に降臨された再臨主

 姜賢實(カン・ヒョンシル)

第一章 成長と入教 
迫害と嘲笑を耐え


午後4時頃でした。お父様が、「私は裏山に登り、風にちょっとあたってくる」と言われて家を出られました。李スッキさんと私は夕食の準備をしようと、米を洗っていました。そのとき、憲兵隊の軍人二人と玉世賢(オク・セヒョン)オモニの息子、そして崔(チェ)女史たちが突然やって来ました。


憲兵隊の軍人二人はカーキ色の服を着ていました。彼ら一行は、入るとすぐに命令調の言葉で私たちを部屋に押し入れました。玉世賢(オク・セヒョン)オモニ、スッキさん、そして私が部屋に押されて入りました。その部屋に火をつけてやると言う崔(チェ)女史の声も聞こえてきました。また、ある人はお父様の聖書をビリビリに引き裂きもしました。


その部屋の中はあっという間に修羅場になってしまいました。そして崔女史は台所道具を全部投げ出しました。茶碗、米びつ、さじ、おけなどを投げて、声を出して騒ぎました。


その声を聞いて丘の下に住んでいた多くの人が見物をしようと集まってきました。私は心臓が弱いのか、あるいは信仰が心の中心に立っていないからか、とても震えました。そして、いろいろな考えをしました。「これですべてが終わるのではないか」とまで考えました。


私は、憲兵隊の軍人にトイレに言って来ると言ってこっそり外に出ました。お父様はどこにおられるのか、山を見上げてみましたが見えませんでした。それで、山に少し上ったのですが、周囲が暗くなって怖くなったということもあり、そのまま下りてきました。水晶洞(スジョンドン)の道を下って行くのですが、足がとても震えて、まともに歩くことができませんでした。


私はその時、イエスを信じる道がこんなに難しいならば、誰がこの道を行くことができるだろうかという思いになったりしました。ちょうど橋を渡ったところで、金元弼(キム・ウォンピル)先生が現れました。金先生は私の手をぎゅっと握りながら、「いつ来ましたか」と尋ねました。「きのうの夜に来ました」と言ったら、「玉世賢(オク・セヒョン)オモニが水晶洞(スジョンドン)電車停留所で待っているのでいっしょに行きましょう」と言いました。


そして、「私たちはしばらく身を避けるためにお金が必要になるでしょう。集めたドルを戸の枠の上に隠しておいたので、私が家にしばらく立ち寄って、そのお金を取って来ます」と言ってボンネッコルの家に向かって上がっていきました。金先生を待っている間も、私はもしかしたら憲兵隊と遭いはしないか胸が震えました。しばらくして、金元弼先(キム・ウォンピル)生が手ぶらで帰ってきました。その家の周りは憲兵隊たちが守っていて、中に入ることができなかったと言いました。


結局私と金先生は電車の停留所に歩いて下りました。そこには、玉世賢(オク・セヒョン)オモニが一人で哀れに立っていました。10分ぐらいして李耀翰(イ・ヨハン)牧師が伝道から帰って来ました。私たち一行四人は、どこに行こうか迷いました。行くところが何処にもなかったからです。


しばらく考えた末に、金ソンシルさんの家に行くことにしました。その金ソンシルさんは李耀翰(イ・ヨハン)牧師から御言葉を聞いていたのでした。ソンシルさんの家はヨムジュドンにあったので、私たちは電車に乗ってソンシルさんの家を訪ねました。その時は避難時代だったので厳しい生活をしているときでした。ソンシルさんの家は日本式の家の一部屋で、横に細長い廊下がありました。


私たち一行は、そこで一夜を過ごしました。狭い廊下だったので、足を伸ばすこともできないところでした。そこで私たちはうずくまって夜を明かしたのです。夜を明かしながら私は、「お父様が本当に再臨主として来られたのなら、遠い後日になれば今日の出来事を歴史が証しするだろう。お父様がどれだけひどい反対と迫害を受けたのか歴史は知っている」と思いました。その夜、私たち一行の心情と表情は憔悴(しょうすい)するだけでした。


一方、お父様は山でその日の午後の状況をすべて見ておられたと言われました。状況を見ながら、「(彼らの探している)張本人が私なのだから、私が下りて行かなければならない」と考えられ、山から下りて来られました。家の中はお化け屋敷のように多くの物が散らばって壊されていました。憲兵隊要員たちは、お父様を引っ張って水晶洞(スジョンドン)の近くにある東部警察署に行きました。


そのとき、李スッキさんが一緒にその後を追って行ったのですが、崔(チェ)女史が歩いておられるお父様の横で、お父様に向かって大声でひどい罵倒を浴びせたということでした。道を歩いていた人々も、その声に驚いて足を止めて振り返るほどだったといいます。その声を聞いた人なら誰でも、「あの男がどんな罪をどれほどたくさん犯して、あの女性にあのようにひどい悪口を浴びせられるのだろうか?」と思ったことでしょう。お父様は何も言わず、その侮辱をそのまま耐えられました。


人類を救うために来られたお父様がそのように嘲笑を受けられたということを考えると、遠い後日に人類は痛哭(つうこく)しなければならないでしょう。そのとき、お父様は家庭的な十字架によりひどい迫害を受けておられ、社会から嘲弄(ちょうろう)を受け、悪口を聞かなければならないのでした。


東部警察署に到着して取り調べを受けましたが、ちょうどそのとき、警察署に金ウォンドゥクさんが勤務していました。金ウォンドゥクさんはお父様が興南監獄におられた時、いっしょに収監されていた囚人だったのですが、お父様の御言葉を聞いて伝道された人でした。金ウォンドゥクさんは、お父様が普通の方ではないことを知っていたので、事件の本質を正しく知り、うまく処理してくれました。その事件を家庭的な問題だと整理し、お父様を警察署の宿直室に迎えて一晩寝させて差し上げた後、次の日に帰られることができるようしたのです。


翌朝、金元弼(キム・ウォンピル)先生は職場に出かけ、李耀翰(イ・ヨハン)牧師は伝道に出かけました。私は再び水晶洞(スジョンドン)へ行きました。「家がどうなったか、事件がどのように結末が出たのか行って見なければ」という気がしたからです。


午前11時ごろ、水晶洞に到着すると、お父様が家におられました。家に入ろうとする私を見て、お父様は聖進(ソンジン)母子がここに来ることになっているから、この場を早く避けるようにと言われました。その言葉にとても驚いた私は、他の所に逃げなければならないと思い、その家を出ました。


その瞬間に家に入って来る崔(チェ)女史と出くわしてしまいました。崔(チェ)女史はいきなり私の頬を叩きました。「この気違い女がここまでついて来たか!」と言いながら、口にすることができないひどい悪口を浴びせ始めました。それとともに全身を叩き始めました。


私はその場所からやっと逃げて、水晶洞(スジョンドン)の家の裏にある丘の上に上がっていきました。心臓が震えてめまいがしました。やっとのことで丘の上に登って見ると、下の方の麦畑に麦が青くつんつんと伸びているのが見えました。冷たい風が吹き、私の心はあまりにも苦しくて重かったのでした。


私は、「神様は、これが神様の御意志であれば私をして度胸と勇気を持たせて下さり、これよりもっと大きな試練が私にやって来たとしても、喜びの心で勝利するようにさせて下さい。御心でないならば、行く道をふさいでください」と神様に祈りを捧げました。


12時をはるかに過ぎて金元弼(キム・ウォンピル)先生が私を訪ねてきました。「賢實(ヒョンシル)さん、家に行きましょう。崔(チェ)女史が悔い改めましたよ」と言いました。しかし、その言葉を信じられなくてしばらくそのまま座っていました。どのくらいの時間が経ったでしょうか、心が落ち着いた後、金先生について下っていきました。到着してみるとお父様は崔(チェ)女史にたくさんの御言葉を語っておられました。その貴い御言葉に崔(チェ)女史も感動し悔い改めながら、「私も今から一食口になり、この道を行きます」と屈服するようになりました。



痛哭(つうこく)のアリラン峠


お父様は私が帰って来たことを見られるや崔(チェ)女史に向い、玉(オク)オモニと私に、「申し訳なかった」と許しを乞うように言われました。崔(チェ)女史は自尊心のせいでためらうようすでしたが、結局、私たちに申し訳なかったと言いました。


お父様は、「聖進(ソンジン)オンマは玉世賢(オク・セヒョン)オモニに対し、娘の立場でよく仕え、姜賢實を妹のように対しなさい。玉世賢(オク・セヒョン)オモニは、聖進(ソンジン)オンマを娘のように考え、姜賢實は聖進オンマを姉のように思わなければならない」と言われました。その時私には、さまざまな考えがよぎりました。「崔(チェ)女史は本当に哀れな方であられる。夫であるけれど夫として考えることができず、一食口の立場で師匠として仕えなければならないので、ある面で本当にけなげな方だなあ」という思いになり、私は崔(チェ)女史に頭を下げました。


そして、お父様は祈られました。「神様、復帰の道は恨(ハン)の多い道であり、血と汗と涙で綴(つづ)られている道であることをまた今更のように感じています。この御旨を成しておかれるために、父は六千年を一度も休まずに痛哭しておられ、切なく探し求めて来られた道であることを、この小子(しょうし/自分をへりくだっていう語)はあまりにもよく知っています。この小子に多くの期待をかけられ御旨を成してくれと願われたその御言葉を、私は記憶だけするのではなく、きっときっと成して差し上げます。その昔、この小子をつかんで哀願され付託された言葉を私は忘れずに守りますので、父よ、慰労を受けられ、私を信じて下さい」と心からこみ上げる懇切な祈祷を捧げられました。


その祈りは、お父様の血と汗と涙で染まった心から湧き出る痛哭の祈祷でした。私もそのとき、痛哭して泣きました。私だけではありません。玉世賢(オク・セヒョン)オモニと金元弼(キム・ウォンピル)先生も泣いて、涙が川を成すようでした。


台所には、まともな器一つ残っていませんでした。金元弼(キム・ウォンピル)先生が弁当を包んで持って行くときの弁当箱だけがまともでした。それで、弁当箱の蓋にパンを入れて祈った後、新たな出発を記念して分けて食べました。そのときのことが今でも生生しく思い出されます。


お父様はそのとき崔(チェ)女史に、この道を共に行くと心から決心しなければならないと強調されましたそして、一番重要なことは、崔(チェ)女史も食口としてお父様を信じて侍り、敬い、仕えるという気持ちを持つべきだと言われました。それは、崔女史に最も越えにくい峠であったし、責任分担であり宿題でした


後で聞いたらボンネッコルの家にいた時、近くに別の家を借りて礼拝をしていると、崔(チェ)女史が便所で人粪を汲み上げて撒いたこともあったということです。その話を聞いて、「この方が反対をしたけれども、それが普通のやり方ではなかった。それほどひどくお父様を愛したのだなあ」と思いました。お父様がその方の愛に応えてあげたなら問題がなかっただろうに、神を愛し神の御旨を成し遂げるために生きられる方なので問題が続けて生じたのでした。


しかし、その瞬間には、崔(チェ)女史も確かにこの道を行くと、三人以上の証人の前ではっきりと約束をしました。お父様は、誰よりも崔(チェ)女史が天の御旨を成すために一食口になると誓ったのを見て、あまりにも感心され満足されているかのように見えましたその後、崔(チェ)女史は、ソウルに荷物を取りに上がってから二週間後には帰って来ると約束して上京しました。


崔(チェ)女史はソウルから荷物をもって釜山に来ました。しかし、長い年月の間一人で息子を育てながら不安で憂鬱だったのか、朝に夕に心が変わりました。お父様が少しよく対して下さると少しばかり良くなるのですが、お父様が誰かに会いに外に出られて食口たちと長い時間過ごされたり、自分が疎かにされているという感じがしてくると一人であれこれ考えながら、心が180度変わってしまうようでした。


詳しい話は全部できませんが、あるときには、崔(チェ)女史自身の心ではないかのような常識以外のこともしました。お父様は私に姉と妹のように過ごせと言われたので、崔(チェ)女史の洗濯もしてあげ、親しく過ごそうと努力しました。しかし、崔(チェ)女史は私たちの教会の食口になるということが難しいようでした。礼拝に出ても、常に隅に一人で座っていて、誰とも話をすることもなかったのでした。


その年の冬に、私は大邱(テグ)の開拓に行ってから、12月に釜山に一時帰ったのですが、その時も私を見るやいなや台所にあった薪で私を叩き始めました。私はあちらこちらに逃げてみようとしましたが、仕方なく何度か打たれました。さらに私を見て、「不倫女」と言いながらひどい罵倒をたくさん浴びせました。


そのため、「この方はなかなか心が安定できずに、まだこうしているんだな」という思いをしました。朝には悔い改め、夜はまた人々に乱暴を振るうというように心が変わりました。おそらく、自分の心ではないようでした。特に若い女性たち、自分より年齢が低い女性にはよりその傾向がありました。私はボンネッコルの家のときから知っていただけに、見るたびごとにより腹が立ったようです。


その後は、長い歳月が経って1970年代に一度会ったことがありますが、そのときは心がとても安定していて、お互いに和解をしました。



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