シャボン玉のブログ

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削除された姜先生の回顧録・第一章 その7 お父様からの試験

下記に出てくる、鄭達玉(ジョン・ダルオク)先生は、金元弼(キムウォンピル)の奥様ですね。金元弼先生と鄭達玉先生の間に生まれた方が金東淑様で、聖進様と祝福を受けられました。


お父様が鄭達玉先生の信仰に対し「神も試練できない人だ」として証された内容が載っています。

<参照>「神も試練できない人」 お父様が認められた信仰! 《3年間開拓伝道の証し》: いつも私のとなりに神さま【家庭連合会員のブログ】


※三家庭:金元弼・鄭達玉、劉孝元・史吉子、金榮輝・鄭 大和


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私の証拠的生涯(=主を証しする私の生涯)
韓半島に降臨された再臨主

 姜賢實(カン・ヒョンシル)

第一章 成長と入教 
水晶洞(スジョンドン)教会の出発


水晶洞(スジョンドン)の家は裏山のふもと、貧民が住んでいたところにありました。路地から出てくる人の姿もみすぼらしくて、私の心まで憂鬱になったりしました。その事件以来、近所の人の視線が常に私たちに集中していました。近所の奥さんたちが、私たちの家のことを「けんかする家」と通り過ぎながら指を指しました。なので家を出るときは頭を下げて出て、人々が集まっている所は避けて通っていました。私を知っている人がいない市内に出ると、心が楽になりました。


(しかし)たとえ生活は困難であっても、「釜山の水晶洞の谷間に、神様の六千年摂理の御旨と目的を成すために来られたメシヤがおられる。人類の生命を救う根本であられるメシアが避難民の中で一緒に苦労するのは、天宙の恨(ハン)を解くためであり、神様に真の孝子の道理を尽くして神様を慰労するためである。このような貴い御旨を先に知ることになってどれほど感謝なことか!」という思いをもちました。


ある日は、伝道をしに市内に行って帰って来たら、お父様が非常に沈鬱(ちんうつ)な表情で座っておられました。顔色がとても良くないので心配をしていたところ、隣の部屋の家主の婦人が昼間に起こったことを話してくれました。玉世賢(オク・セヒョン)オモニの夫であった​禹(ウ)長老と息子がここにやって来たと言うのです。父子の二人はお父様に向かってあらゆる罵詈雑言をすべて浴びせ、お父様の胸ぐらをつかんで頭を壁に叩きつけたと言いました。お父様がその父子にさんざん殴られたと、家の部屋の主人が教えてくれて、涙があふれました。


当時のお父様は、神の御心を成すために、あまりにも悔しい仕打ちをたくさん受けられ、数多くムチ打たれました。なにせ従う食口が少なく、力なく、孤独で寂しいときだったので、口があっても話すことができず、耳があっても聞くことができず、目があっても見えないような生活をされたのです。お父様は誰かがやってきて乱暴を振るい暴力を行使しても何の言葉も話されず、黙ってその悪口を聞きながらじっとそのむちをすべて受けられました。いかなる弁明もされずに座っておられるお父様を見たとき、私は心が痛く、心臓が張り裂けるようでした。


お父様の心臓も焼け焦げていたはずです。返したいお言葉がなぜなかったでしょうか。
しかし、何の言葉も言われず、静かに首をうな垂れて座っておられるのでした。


しばらくして崔(チェ)女史がソウルから荷物をまとめて釜山に下りてきました。家が狭すぎて生活しにくかったので、水晶洞(スジョンドン)に部屋二つの家を一つ買いました。金元弼(キム・ウォンピル)先生が絵を描いて貯めたお金で工事をして、部屋をもう一つ増築しました。


そういう仕事は李ボンウン長老が主に任されてしました。李ボンウン長老は、済州島(チェジュド/さいしゅうとう)にいるときに精誠を尽くす生活をして霊的に啓示をたくさん受けた方です。その後、霊的に、「姜長老の娘」という若い女性が前掛けを着て台所で働くのを見たと言い、後で釜山に来てみたら、その姜長老の娘という若い女性がまさに私だったと話してくれたことがあります。


引越した水晶洞(スジョンドン)の新しい家から復帰の歴史が始まりました。主日(=日曜日)の昼の礼拝を行ったとき、意外に多くの人々が集まって礼拝をささげました。たくさん集まるときには20人余りも集まりました。お父様は賛美歌に酔いながら歌われ、説教の御言葉にも酔いながら話されました。神様が話されたかった内容をお父様が代わりに伝達されたので、礼拝の雰囲気はいつでも恩恵があふれました。本当に生きておられる神様に心と精誠を捧げて行う礼拝でした。深い境地に到達したときには、食口たちが立ち上がって踊りを踊りました。時折、「エデン復帰!」と大きく叫ぶ食口もいました。皆が神様に喜びで応じる礼拝の雰囲気でした。


そんな雰囲気だったので、ある食口は異言を語り、ある人は幻想を見、ある人は直接的に啓示を受けたりしました。自分を忘れて無我の境地で礼拝を捧げました。


試験に落第を重ねる


1953年3月の末ごろに引越しをした後、私は7月19日までその家で生活しました。その家は水晶洞(スジョンドン)の裏山のふもとの丘の上に建っていました。そこは高い所なので、水道の水が出なかったし、水道施設もありません。それで井戸水を使わなければなりませんでした。その時私は、台所家事のすべてを任された仕事をしており、またほぼ毎日釜山市内に霊的な人やよく信じる人々を訪ねて御言葉を証しする生活をしました。その生活はあまりにも重荷でした。


毎日夜12時になると水がめで水を汲み始めました。夜でなければ、水を汲むことができなかったからです。夜も多くの人々が水がめを並ばせておいて立って待っていました。その時に水晶洞の家に住んでいた食口が十五人ほどでした。また、御言葉を聞くために訪ねてくる人もいました。それで、水がたくさん必要でした。普通、夕方に水を汲み始めると、20回は汲まなければなりませんでした。20回汲もうとすると3時間かかりました。ある時は水がめを頭に載せて坂道を上りながら、滑って水を全部こぼしてしまう時もありました。するとチマ、チョゴリ、下着まで全部濡れました。どれくらい大変だったか、私の体は痩せていきました。自分の力をもっては耐えることができないことをしたからです。


ある日は、市場に行ってお米を二俵買いました。昔は米の籾殻(もみがら)があまりにも多く混ざっていたため、ざるで籾殻をあおって取らなければならなかったのでした。二つの米俵をそのようにするには、朝から夕方まで時間がかかりました。そんな日の夜には腕がとても痛くて、髪にも櫛(くし)を入れることができないほどでした。


それでもお父様は私にあまりにも多くのことをさせられました。そのとき、お父様が私を叱られたことはいまだに生生しく思い出されます。「この家は、父なる神様に侍る家である。寺に仏を祀(まつ)っておく家も、ほこり一つ見つけることができないほど綺麗ではないのか?父なる神に侍る家がなぜこのように綺麗でないのか!」と叱られました。


ある日は、私をトイレに連れて行き、トイレの上に蜘蛛の巣とほこりがたくさんたまっているので綺麗にするように言われながら、「どうしてこんな家に神様が訪ねて来られるか」と心配されたりもしました。他の食口たちに向かっては何のお言葉もないのに、ただ私さえ見られればそんな心配をされ叱ったりされました。


ある日はお客様のゴム靴を全部洗って置くように命令されたりしました。私は心の中で、「水を汲むことがどれほど大変でつらいか、なぜあのように命令されるのだろうか?再臨主に侍ることが全くつらい道であるな」という思いもしました。


その当時のお父様は何回か私を試験されました。しかし、私はそのつど試験であることがわからず、すべての試験に落第をしてしまいました


あるとき布団を縫う大きな針を持って来られ、私に手を伸ばしていなさいと言われました。私は「もし、お父様がこの針で私を刺したら痛くてどうしようか?」という考えが先んじて手のひらを開いたりすぼめたりを何回かしました。するとお父様は、「私がおまえを刺すと思うか?私が命令することにどれほど従うかを試験してみようしたのだが、またこの試験にすべったな」と言われました。


またあるときは、洞内(=町内)の班長が砂利敷きに出て来なさいと言いました。するとお父様は、私に籠(かご)とスコップを持って外に出て砂利敷きをしてこいと言われました。砂利敷きは男だけがすることでしたが、私をして砂利敷きに出て行けと言われて、私はその時びっくりしました。当時の私は27歳の若さでした。だから、「男たちがすることを私がどうしてすることができるでしょうか」と従えませんでした。


すると、「本当に出て行かないのか?」と尋ねられました。私は出かけることもいやだし臆する気持ちで、「私は出られません」と台所に行って隠れました。するとお父様は台所まで付いて来られ怒られながら、「本当に出られないのか?」と再度尋ねられました。そのときになってやっと私は、「それでは出ます」と答えました。お父様はそして、「賢實(ヒョンシル)が砂利敷きに出て行くといっても私は行かせない。どれほど御言葉に従順であるかを試験したのに、また落第したんだなあ」と言われました。


私はお父様が私を試験されるとは夢にも思いませんでした。現実だけ考えたので、私の立場だけを先立たせ、御言葉に従順になりませんでした。あまりにも分別がなかった生活でした。ふと考えると、不信し不従順で生きてきた過去が恥ずかしく、限りなく後悔だらけです。


絶対従順の標本であった鄭達玉(ジョン・ダルオク)ヒョンニム(夫の兄嫁や姉に対する呼称。ここでは単純にお姉さんの別称)


それに比べて、当時私と一緒に生活していた鄭達玉(ジョン・ダルオク)ヒョンニムは絶対従順の標本でした。お父様もいつも達玉(ダルオク)ヒョンニムがお父様に侍って仕え従うことに絶対従順の標本人物だと言われました。達玉ヒョンニムはお父様が北韓におられた時、御言葉に初めて接しました。しかし、父と兄二人が牧師として務めるほど篤実(とくじつ)なキリスト教の家だったので、親が極度に反対しました。その家では、家の威信もあって達玉ヒョンニムにお父様のお話を聞かせまいと家の中に閉じ込めました。


いくら閉じ込めておいても達玉ヒョンニムの意地が折れなかったため、怒った父親が刀を前において「止めるか、死ぬか」と尋ねたそうです。そのように脅迫をしても行かせまいとする考えではなかったかと思います。しかし達玉ヒョンニムは刀を持って指の一節を切ってしまいました。「今、私が指を切りましたが、私をずっと閉じ込めておけば、これで死んでしまいます」と言ったということです。だから、親と兄弟が両手を上げて、勝手にしろと降伏してしまったということでした。


お父様はその話を聞いて、「鄭達玉はひどく徹した人だ」と言われました。


その年の5月でした。私は風呂に入って来て、座って頭を乾かしていました。その後、お父様が言われたのは、「達玉(ダルオク)氏。賢實(ヒョンシル)のところに行って耳をつかんでキスをしてみろ」でした。普通の人であればそのような話を聞いて笑ってしまうでしょう。ところが達玉ヒョンニムはその言葉が終わる前に私のところに来て、私の耳をつかんで口を合わせました。私はそのような状況が面白すぎてしばらく声を出して笑いました。お父様もまたいっしょに笑いました。


ある日、お父様が、「達玉(ダルオク)氏、踊りを一度踊ってみなさい」と言われました。すると達玉ヒョンニムはためらう様子もなく立ってひらひら踊りを踊りました。我たちは皆笑い袋が裂けて笑うのですが、達玉ヒョンニムは本当に真剣にお父様の言葉に従順になって踊りを踊るのでした。


あるときは、ある食口が達玉ヒョンニムにスカートの生地を買ってきました。達玉ヒョンニムはそれをお父様に持って行って、「お父様!これで外スカートにしますか、それとも内スカートにして着ますか?」と聞いてみたりしました。お父様は、「何でそんなことまで私に聞くのか?」と叱りながらも、「あのように絶対的な信仰をしている人の前に私は何をどのようにするべきか?」という考えをたくさんしたと言われました。


またいつだったか、達玉ヒョンニムの手の指先に腫れ物ができました。それで、ある日、お父様が冗談で、「どうして腫れ物がそんなに長くできているのか?その指を切ってしまえ」と笑いながら言われました。しかし、本当に達玉ヒョンニムははさみを持って来て、「どれだけ切ればいいですか」と尋ねました。お父様は結局、「達玉の前では冗談もできない」と言われながら、「達玉氏は、親よりも、子女よりも、夫よりも、兄弟よりも、財産よりも、自分の命よりも先生をより重く考え、信じて侍る者」と言われながら、満足しておられました。


水晶洞教会時代に私は達玉ヒョンニムと短い期間でしたが一緒に生活しながら、絶対的に心から神様を信じて、お父様に侍り奉る方だということを多く感じて学びました。当時の私は達玉ヒョンニムと一緒に台所でお父様の食事を準備しました。そのとき、達玉ヒョンニムの精誠は到底いい表わせません。祈りと精誠でおかずを作るのですが、おかず一つを作って食膳に置くたびに、「先生、これをおいしく召し上がって下さい」と祈りをしていたその表情は、今でも目に鮮やかに残っています。


時々、そのような達玉ヒョンニムの姿がじれったく見えるときもありました。そして、あまりにも純真なので、ちょっと柔軟性がないように見えたりしました。


達玉ヒョンニムがいつも胸に抱いていたハンカチがありました。そのハンカチを見ると時間がたっていて古びていました。しかし達玉ヒョンニムはそのハンカチをどんな宝石や宝物よりも貴く考え、いつも抱いて身につけていました。それで、私は何のハンカチですかと聞いたことがありました。そしたら達玉ヒョンニムは、「北韓で先生がくれたハンカチ」と言いながら、大変貴く思っていました。そのように絶対的にお父様を信じて侍り、仕え従うことのできた達玉ヒョンニムを大変尊敬しました。そして達玉ヒョンニムの事を思うたびに、我知らず元気が出てうれしくなり、また自分自身が恩恵を受けました。



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