シャボン玉のブログ

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削除された姜先生の回顧録 第二章 その3 大邱教会の出発

私の証拠的生涯(=主を証しする私の生涯)
韓半島に降臨された再臨主

 姜賢實(カン・ヒョンシル)

第二章 ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
  ● 起きて叫ばん
    ▲ 大邱(テグ)教会の出発 


山から降りて家賃が安い鳳山洞(ボンサンドン)に部屋を一つ得て、礼拝を捧げました。
そこが最初の大邱教会でした。その教会が定着した後、8月末に李耀翰(イ・ヨハン/李ヨハネ)牧師が大邱に来ました。


ところが、南門(ナンモン)教会の重鎮であった​​勧士と執事たち10数人がいっぺんに南門教会に行かなくなって問題になりました。その勧士と執事たちが恩恵を受けた内容を周りに伝え始めたので、大邱にある教会全体に噂が広がっていきました。そこで、80名余りの長老教会の牧師たちが集まって対策会議をしたのです。そうして主日(=聖日)説教の時間に、「釜山から何でもない女の異端が入って来て南門教会が荒野(あらの)になりました。もし、誰かが新しい話をしても、絶対について行ってはいけません」と警戒令を出しました。


ある日、礼拝を捧げていると一人の人が息を切らして訪ねてきました。それで、「どのような事で来たのですか」と尋ねると、「南門教会でさっき礼拝に出てから来ました」と言い、一部始終を話しました。


「礼拝の時間に牧師が、『釜山から来た女性がいる所は異端であり地獄に行く所です。そこに行けば滅び、死に至ります』という話を聞きながら目を閉じていると、『そこは異端ではない。滅びて死んで地獄に行く所ではない』と神様の声が聞こえてきました。『今、この南門教会はよもぎ水を飲ませるが、そこは命の泉の水を飲ませる所である。今、そこで真の生命を救うことができる礼拝を捧げているので、白いゴム靴を履いて自転車に乗って早く行け』と教えてくれた」と言うのでした。それで、その人はこちらの礼拝が終わる前に到着しようと急いで啓示を受けた場所に来たと言いました。


その人が来たあと再び礼拝を続けたのですが、「私は今、地上で主に会うことになったのでどれほど嬉しいか分かりません」と言いながら、踊りを踊りました。その人のおかげで、周囲の迫害でつらい思いをしていた食口たちが力を得るようになりました。草創期の私たちの大邱教会ではそのような神霊役事がたくさん起こりました。


その恩恵が大きいほど迫害も多かったのです。だから引っ越しをたくさんしました。引越して来た家で礼拝を捧げると、数日したら近所から、狂った人々が引っ越して来たという噂が立ちました。結局、一週間にもならない前に、「教会に行って礼拝をしたらいいのに、家で礼拝をして『アイグ、アイグ!』と声を出して泣きながら祈祷をする。明らかに狂った人たちだ。縁起の悪い人たちがこの町に入って来てはだめだ」と言いながら追い出したりしました。


1953年9月17日、大邱駅でしばし、お父様にお会いすることができました。お父様がソウルを開拓するために発たれる途中に、大邱駅でお会いしたのです。


▲当時の大邱駅舎


韓国の首都ソウルは暗闇に沈んでいました。お父様が鍾路区(チョンノグ)清進洞(チョンジンドン)に下宿を定められ、訪ねてくる人々に接するたびに、精誠と物を惜しまずに与えられ、御言葉を伝えられました。


私はお父様に一週間に一度、活動した内容を手紙で報告を差し上げました。一カ月にも何度も引越しをしなければならないので、大邱の住所を南山洞(ナムサンドン)にあったある執事の家に決めました。先生も数通の手紙を書いて下さいました。その内容は、「生きておられる神は、まさに私たちの側に立っておられる。心細く、寂しく、もどかしいときに神様を呼べばいつでも、神様は賢實(ヒョンシル)を離れることなく、いつも共にいて下さるので、強く雄々しくあれ。神様が共にいてくださるという信念と確信を持って、神様の胸の中に隠された秘密を、願う者たちと神様が愛される者たちに植えてあげなさい」という懇切な付託でした。


「苦境と苦労が終わって、栄光と勝利を誇ることができるその日を早く迎える為には、私たちの犠牲と忠誠、そして精誠が伴うので、熱心にサタン主権の世界を神主権の世界に戻し立てよう」という大変な内容でありました。


蛇のように賢くあれ


1953年11月2日お父様が初めて大邱市内に来られました。我たちはその時、南山洞に小さな部屋二つを借りていたときでした。家の主人のおばさんが、お客さんが来られたと言うので、洗濯をしていたのですが飛び出してみたところ、お父様があまりにもみすぼらしい姿で立っておられました。


お父様の後ろには背負かごに荷物を背負った男がついて来ていました。私は心配になってお父様に、「どうして前もって知らせもなく来られたのですか」と尋ねたところ、お父様は何も言われず、ただ、「こういうことになった」とだけ言われました。その時刻が朝7時頃になった時でした。


食口たちにお父様が来られたと連絡をしました。あまりにも困難な生活をしている時だったので、あり合わせのもので精誠を尽くして、朝食を準備して差し上げました。


私は教会を開拓しながら、いつかはお父様が大邱教会に来られると思っていました。なので食口たちと相談して、布団と丸い座布団をあらかじめ用意しおいたのでした。布団の色は黄緑色の絹地に赤い羽根で囲み、座布団は赤でした。大邱(テグ)の開拓が大変でむずかしかったのですが、布団を新調するために、初期の食口たちは心を一つにして精誠もたくさん込めました。そのお金を作るためにも多くの困難がありましたが、あらかじめ準備しておいたのでした。


お父様は薄いそら色のスーツを着ておられましたが、あちらこちらに油汚れが付いていました。それで、私は食口たちが李耀翰(イ・ヨハン)先生に差し上げた韓国服のパジチョゴリをとりあえずお捧げし、その洋服は洗濯屋(=クリーニング屋)に預けました。李牧師のパジチョゴリはお父様に合いませんでした。袖が短く、チョゴリ(=上衣)も短かったし、特にパジ(=ズボン)は短すぎて見るに忍びないほどでした。


そんなお父様の姿を見ると心の奥底から悲しみが痛くこみ上げてきました。二千年前、イエス様が来られた時、服の一つでも準備しておいて待つ聖徒がいませんでしたが、今日(こんにち)も天宙の主人公になられる方が来られたのに、キリスト聖徒たちが知ることもできず迎えることができないことを考えたときに、熱い涙が私の顔を覆いました。


お父様が来られたという知らせを聞いた大邱食口たちが集まり始めました。瞬く間に下の部屋と上の部屋がいっぱいになりました。それまで大邱食口たちは、お父様についての話はたくさん聞いていたのですが、直接会ってお目にかかることはできなかったので、いつも思慕しながら待っていたのでした。


お父様は朝食が終わった後、御言葉を語り始められました。皆、御言葉に酔い時間の経つのも忘れていました。


そう時間が経って正午ごろになったときです。突然警察が来ました。おそらく、部屋の中で大きな声で話しておられる声が聞こえ、人々が集まっていたので家の主人がいぶかしがり警察署に通報をしたようすでした。


私は急いでお父様に勝手口から出て下さいと申し上げました。勝手口は女性だけが出入りするので、女性用のゴム靴しかありませんでした。仕方なくお父様は女性用のゴム靴を急いで履いて外に出られました。その家から出て、他人の家の玄関先に身を隠しました。


そこには幸いなことに道行く人々からは見えないところでした。お父様は体に合わないパジチョゴリを着ているうえ女性用のゴム靴を履いておられたので、人々の目には怪しく見られる状況でした。私はお父様の前に立ってチマ(スカート)を広げて立っていました。しかし、私の背が低いので、お父様を覆って差し上げることができませんでした。その路地に立って私は切実に祈りました。


「神が愛しておられる息子がこのように、サタン世界の人々から追われて侮辱を受けています。本当に神様が遣(つか)わされた方であるならば、もう少し穏やかに行くことができるようにして下さり、神が生きておられることを見せて下さらなければなりません。彼らの暗い目を明るく見えるようにして下さり、天宙の真の主人であられる父を分からせてやって下さい」と祈りながら立っていました。


お父様のお姿は、大変みすぼらしく哀れに見えました。お父様は、「聖書に、知恵は蛇のようにしろと、イエスは言われた。神の御心を成して差し上げるか成せないかは、人間がすることにかかっている。暗いサタン世界に神の高貴なる御旨を繰り広げようとするから、サタンがじっとしているはずがない。いかなる方法であれ御旨を成す事ができないよう妨害をしているが、私は刑務所や留置場を恐れはしない。ただし、もし何かの事件でも生じたなら、それだけ復帰摂理が延長されるので、知恵深く行動をしなければならない」と言われました。


そう言われながら、「賢實(ヒョンシル)が今食口たちの中で一番若いから、知恵深く敏捷(びんしょう)に囲いになって動いてくれ」と願われました。「どれほど人がいないので、私にこのような願いをされるのか」という気持ちで神様に対する切実なお父様の心情をより痛感しました。


お父様は、「国を探し求める為に独立軍が命を捧げて戦ってきた。私たちは、この地に全人類が共に良く住むことができる神の国を立てるべき責任があることを考えれば、何ができないことがあるか」と激励して下さりもしました。その時のお父様の立場とその姿、その切実さを今も忘れようとしても忘れることができません。


その家では休まれることができないので、すぐに大邱駅近くの旅館にご案内しました。スーツは取りに行けなかったので、お体に合わないパジチョゴリを着てタクシーに乗られました。いったん旅館の部屋をとり、洗濯屋に行って洋服を取って来ました。洋服を着られて、私の心がやっと楽になりました。


警察が来てから、近所の人たちの視線がいっそう厳しくなり、再び南山洞に引っ越しをしました。そして、隣に部屋を別に借りて、お父様をお迎えしました。私は食事のたびにその部屋に行って料理を作って差し上げました。その年の11月は天気がひときわ寒かったです。大邱(テグ)の冬の風に、手が腫れ裂けて血が出ました。そして、反対し迫害している群れのために悩まされ、つらく過ごしました。お父様は大邱で命をかけて伝道をしなければと言われましたが、なかなか伝道の炎が燃えませんでした。それだけ既成教会の信徒たちの反対と迫害、嘲笑が強かったからです。


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