シャボン玉のブログ

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削除された姜先生の回顧録 第二章 その4 お父様の後ろ姿

私の証拠的生涯(=主を証しする私の生涯)
韓半島に降臨された再臨主

 姜賢實(カン・ヒョンシル)

第二章 ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
 ● 起きて叫ばん
    お父様の後ろ姿 

1953年11月20日頃、南山洞(ナムサンドン)の部屋を借りて、数日もしなかった頃でした。南山洞の路地の横の小さい部屋には、玉世賢(オク・セヒョン)オモニ、池承道(チ・スンド)オモニ、李耀翰(イ・ヨハン)牧師、そして私を含めて4人が寝起きしていました。

その日の午後4時になった頃でしょうか、どこかで聞き慣れた声が聞こえてきました。「南山洞31番地がどこですか?」というその声は、崔先吉(チェ・ソンギル)女史の声でした。

アイロンをかけていた私は大変驚き、靴も履かず外に飛び出し、木を積み上げておいた小屋に隠れました。主人のおばさんは、私がそのように驚く姿を見て不思議に思ったようです。玉世賢(オク・セヒョン)オモニ、池承道(チ・スンド)オモニ、李耀翰(イ・ヨハン)牧師は部屋の中で、門の取っ手をつかんで震えていました。家の主人が、「ここは南山洞31番地ではありません。もっと上がらなければなりません」と機転を利かして答えてくれました。

南山洞31番地は、任執事(イムチプサ)の家の住所でした。どうして崔(チェ)女史が大邱(テグ)にある任執事(イムチプサ)の住所を知っていたのでしょうか?大邱(テグ)にいるとき、私たちはあまりにも頻繁に引越しをすることになったので、お父様に手紙を送るとき、任執事(イムチプサ)の家を住所に定めました。お父様が報告を受けることをいつも喜んでおられたので、週一回報告の手紙を送りました。

おそらく崔(チェ)女史は、金元弼(キム・ウォンピル)先生を通じてお父様のソウルの住所を知ることになり、そのソウルの清進洞に行って私が送った手紙を見たようでした。大邱(テグ)に到着した崔(チェ)女史は、警察署にお父様を通報までしました。

私はすぐにお父様のところに行って、崔(チェ)女史が大邱に来たと報告しました。その報告を聞かれたお父様は、「今日(きょう)、私がここを離れることが大邱食口たちの為にも良いだろう」と言われました。しかし、上京する旅費がありませんでした。

私は他人に貧乏くさい話はできない性格ですが、仕方なく食口たちに事情を話し、旅費を準備して差し上げました。南山洞から大邱駅に向かわれたお父様の後ろ姿がとても哀れに見えました。夜11時30分に出発する夜汽車だったので、誰も駅までお見送りができない状況でした。その当時は夜間の通行禁止時間が厳守されていたので、お見送りした後、家まで帰ることができなかったからです。

その日に限って、大邱(テグ)の風は身を切るように冷たく、手と足が凍えて歩くことが難しいほど寒かったのでした。「復帰摂理の大志を抱(いだ)かれ、御旨を成して差し上げる為に神様と約束されたその日から、言葉では表すことの難しいいばらの道を十字架を背負って行かれるお父様、その道を同志もなく、お一人で行かれるのか!」という思いになり、自然に涙が出ました。そのようにお父様は、時にはつまずき倒れ、打ち倒されながらも、神様だけを考えながら人類救援の目標に向かって行かれるのでした。そうして、全人類の前にサタンと戦い勝利された見本を見せて下さいました。

その夜、私は眠れませんでした。お父様の後ろ姿がしきりに思い出されて涙だけがとめどなく流れました。

「先生は、このような苦難の中でも放棄しない姿を見せて下さった。そんな先生を見つめられる神様は慰安を受け、立派な私の息子だと微笑まれ喜ばれたであろう。先生は何十回、何百回も、もうこれ以上できないと言えるような機会が多かったけれども、一度も御心に背くことなく従順に生きてこられた。御自身の困難と苦労と苦痛を意に介されず、神の心配と苦衷(くちゅう)だけを心配され、恐れておられたからである。


70億人類の中でどこの誰が神様を心配し、自身よりももっと神様の為に生きようとするだろうか?どこの誰が神様のつらさを和らげて差し上げ、平安に休まれる日の為に努力するだろうか?神様の前にこのように親孝行する孝子は、人類の歴史以来ただ一人もいなかっただろう。私たちの先生のような方がどうしてこの地上に来られたのだろうか?もし来られなかったならば、誰が天と地に絡(から)む事情と因縁の糸口を解くことができるだろうか?先生が来られたので、神様が四千年の間準備をさせて送られたイエス様の御旨を継承され、成すようになったのである。


先生は、六千年間待ち焦がれ千年を一日のように待って来られた神様の目的を成し遂げられる責任を果たした方である。地上は暗闇につかって分からないが、霊界ははっきりと見て、また知って証ししている。いつか地上の全人類も先生が誰であられるかを知るようになるだろう」という考えをしながら、目を開けたまま夜を明かしました。 

劉孝元(ユ・ヒョウォン)先生(初代協会長)の入教 

それから一カ月ぐらい過ぎた後、1953年12月25日、釜山(プサン)でお父様にお会いすることができました。その日、お父様はソウルから釜山に来られました。劉孝元(ユ・ヒョウォン)前協会長、劉孝永氏と劉孝敏氏などが入教したという知らせを聞いて、釜山に来られたのです。私もお父様にお会いすることも兼ねて、釜山に下って行きました。

当時、釜山の水晶洞(スジョンドン)の家には崔(チェ)女史が住んでいたので、お父様をお迎えする家がありませんでした。一旦、劉孝元(ユ・ヒョウォン)氏のいとこで妹の劉(ユ)スニさんの家にお迎えしました。避難民たちが住んでいた影島(ヨンド)の小さな一室でした。その小さな部屋でお父様は、劉孝元(ユ・ヒョウォン)氏に熱心に原理講義をされました。

私はお父様の食事の責任を任せられたので、御言葉を聞ける時間はありませんでしたが、お父様が朝から翌日の午前2時や3時まで話される姿を見ることができました。劉孝元(ユ・ヒョウォン)氏は、健康が良くなく斜めに横になり御言葉を聞きながら、何かをたくさん記録していました。お父様は食事するのも忘れて、御言葉に酔われた立場で精誠を尽くして話されました。木や石でない以上、誰もがその御言葉の前に感動を受けざるをえませんでした。

しかし、経済的にはまだ困難な時期だったので、朝と夕方にお父様に捧げる食事の心配が多かったのでした。

そんなとき、李得三(イ・ドゥクサム)お姉さんが経済的にとても助けてくれました。お姉さんはただ経済的な物質の後援をしただけではなく、心情がいつも生きていて、何が足りないかを言わなくても知って助けてくれたのです。

ある日の夜明けに、我々がまだ眠りから覚めていなかったとき、誰かが門を叩きました。眠りから覚めて戸を開けると李得三(イ・ドゥクサム)お姉さんでした。お父様に差し上げたいと一晩中白菜のキムチ、大根のキムチを漬けて瓶(かめ)に入れて頭に載せ、念珠洞(ヨムジュドン)から影島(ヨンド)まで歩いて来たのです。私は大きな感動を受けました。ちょうどキムチが切れて心配をしながら眠りについたからです。

その当時に御言葉を聞いていた人たちは、劉孝元(ユ・ヒョウォン)、劉孝永(ユ・ヒョヨン)、劉孝敏(ユ・ヒョミン)、金寛成(キム・グァンソン)、宋道旭(ソン・ドウク)氏などでした。


(前列)左から:金寛成 李耀翰   お父様 朴正華 劉孝敏
(後列)左から:劉孝元 姜少領 李漢城 李鳳雲 辛聖黙


   宋道旭          玉世賢

その頃、金仁珠(キム・インジュ)勧士(クォンサ)が北韓から韓国に下って来て連絡がつき、初めて影島(ヨンド)でお父様にお会いしました。金仁珠勧士は、部屋に入って祈りをささげ話を少し聞くや、「アボジ!」と言い、お父様の膝の前にひれ伏して泣き始めました。その姿に私たちすべてが大きな感動を受けました。

釜山の影島(ヨンド)でひと月の間、御言葉を話されましたが、また問題が生じました。町内の班長が、「北韓の言葉を使う青年が来たが、周囲の人々が集まってくる。怪しい」と警察に通報したのです。その通報を受けた警察が訪ねてきたので、東大新洞(ドンデシンドン)に引っ越しをしましたが、また問題が生じて大邱に上がることになりました。

 


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