シャボン玉のブログ

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第1のお母様にも第2のお母様にも最後まで責任を持たれたお父様

韓国国際家庭部・武藤さんの、在韓日本宣教師に講義される資料の中に、第1のお母様である崔先吉女史にも最後に祝福を受けさせてあげたというのがありました。



それでお母様は失敗していない、レア・ラケル問題にも勝利されているという講義内容もあったので、詳しく知りたいと資料を探したら、韓国語『真の父母様の生涯と摂理 第4章-2 家庭的試練と家族の育成0』を見つけました。

日本でも同じものがあるのか分かりませんが、それを読んで、ますます、お父様の心情、天の心情を感じました。第1、第2のお母様に最後まで責任を持たれ、祝福して家庭を築けるようにしてさしあげた内容が載っています。しかし、第1の崔お母様の失敗の内容が、今、第3の韓お母様の失敗の重大さ、もどかしさを痛感させられます。


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참부모님의 생애와 섭리 제4장-2. 가정적 시련과 식구 육성 : 네이버 블로그より抜粋翻訳


真の父母様の生涯と摂理 第4章-2 家庭的試練と家族の育成0
2.家庭的試練と食口の育成
1)聖進様の生母(実母)を中心とした家庭的決裂

聖進様の生母・崔先吉(チェ・ソンギル)女史は夫に対して変わらぬ心を持った烈女であったが、「統一教会の先生というより私の夫だ。」としたことが問題だった。「私の言うことだけ聞けば、すべてのことに責任を持って安らかに過ごせるようにお仕えする。」と言って、天のみ旨よりはただ家庭的な夫になることを強要した。それでみ旨の道を行けないように釜山の頃から様々な反対をしたいだけすべてした。噛んでつねって、ひっかき、叩いて罵倒を浴びせて、甚だしい役事をした。(455)


真のお父様は、歴史上、世界で女性から一番極悪な試練をたどった夫の立場だった。しかし、「その恨(ハン)が世界に及ぶだろう。天上に及ぶだろう。」と言われ、その恨をすべて解くように甘受してくださった。縦的な摂理において責任を果たせなかったことは一つもなかったが、横的な面において、夫の責任をすべて果たすことだけはできない現実だった。だから、その酷い攻撃にも大声一つも出されず、すべてのことをそのまま耐えられた。霊的にもこの世的にも条件にひっかからず摂理の道を行かれるために耐えて来られたのだ。(455)​


ところが、食口たちにまであらゆる被害を加え、教会の公物を数回流用したやりかたは、公法の統治下に置かれた。いくら妻子であっても天法の判定を免れることはできないことだった。時間さえあれば、母親と兄を呼んで、後で後悔するだろうからどうか自制して3年間だけ待ってくれと切に願われ、何度も引き止められた。しかしやめることなく最後まで離婚を強要してきた。結局、天は彼らの望むようにしてやれと命令された。その家族3人の公証の下、1957年1月8日、最終協議離婚がなされた。(456)​


天も知りサタンもすべて知っている限界状況であった。全体のために個体は犠牲にしなければならないという原則にあり、神様でも、歴史上の聖人賢哲でも、個人の良心でも、すべての面で見て限界線を越えたものだった。一人の女性のために、もはや国と民族が滅びるようにしておくことはできなかった。国を生かし、世界を生かすべき天意による最終決断だった。それは蕩減復帰の原則を立てるための過程での不祥事だったが、その影響は世界に及んだ。一人の女性の過ちにより、真のお父様の復帰路程は世界史的な議論の問題として残ったのである。(456)​


事実上、真のお父様の家庭分離を助長して主導した背後には、韓景職(ハン・ギョンジク)(1902〜2000)牧師を中心とした永楽教会があった。その教会全体が主導して異端を処決しなければならないと判定した後、謀議した。聖進様の生母、本人の意思よりは、その母親が悪かった。それで1965年頃、崔女史は「教会に入って、ぜひ台所の仕事でもさせてくれないか?」と哀願するほど後悔した。1980年代には、その兄が水原教会を訪ねてきて、自分の母親を中心とした家族会議で離婚を扇動して、家庭破綻を助長したと直告した。それにもかかわらず、真のお父様は「美人の女性を得るために妻を追い出した。」などと様々な汚名を着せられたまま、黙々と克服して来られたのだ。(456) ​


崔女史は結婚したときの心、初恋の心を持って、神の前に行かなければならなかった。しかし、自分に二つの道があるということを知らなかった。反対せず絶対的に信じたならば受難の道を行かず順調にみ旨は成されたであろう。しかし、エデンでエバという一人の女性が天地を台無しにしたように今日の摂理時代にも一人の女性によって悲慘史を残した。そのような事実が悲痛だが、真のお父様は摂理歴史に恨みを残さないように弁明の一言も言わずに全体に責任を持ってこられた(457)​


崔氏一族の者はカインの位置に戻り、その反対の余波は致命的だった。しかし、国と民族の生きる道と自由世界収拾のために国家の運命、生死の境界線まで崔氏を中心摂理に立てて最後まで解放してあげる役事をしてこられた。最初の在日宣教師・崔ボンチュン氏、真のお母様に侍る三位基台の崔ウォンボク氏、元国際勝共連合理事長・崔ヨンソク氏などが代表的である。(457)


しかし、生母のつまずきにより聖進様は暖かい両親の愛を受けられなかった。真のお母様をお迎えした1960年まで外地で食口たちの手によって成長された。天道を立てる責任を負った家庭になるためには、世界基盤が整うまで酷い迫害を受けながら曲折の道を歩まなければならなかったのである。(457)​


世の地獄まで復帰しなければならないという摂理原則の下で、最後に背を向ける時、讒訴しながら引っ張ることができないようにすべての蕩減条件を清算して行かれなければならなかった。たとえ呪いの訴えを残して息を引き取っても、そこに差し支えなく免れなければならなかった。愛の恩讐を残してはならなかった(458)​


特に真のお母様は万人の女性たちを抱いて、ためにされる偉大な母情で見事にその峠を越えられた。今まで自ら崔女史の家を設けてあげ、生活費を補助して来られた。ある日、真のお父様は真のお母様を先立たせてその家の前まで行き、祈祷してくださりもした。そうして崔氏一家を祝福して慰さめる日を待たれた。(458)


特にこのような摂理的解怨成事のために柳八圭(유팔규・ユパルギュ)氏が志願し持続的な精誠を傾けた。そして崔先吉(チェ・ソンギル)女史は2001年6月18日付けで自筆署名の入会願書を本部教会に提出することになった柳八圭氏は真のお父様の直筆サインを受けて本部に提出した。翌年2002年1月19日には驪州(ヨジュ)南漢江(ナムハンガン)一成(イルソン)コンドミニアムで真の父母様を代身した郭錠煥(カク・ジョンファン)会長の儀礼でイスラエルの預言者サムエルと霊肉界の家庭祝福を受けるようになった。その後、2008年11月16日老衰で昇華し、18日協会昇華式を挙行し春川(チュンチョン)原殿(ウォンジョン)聖地に祭った。(458)​



2)喜進様の生母(実母)を中心とした蕩減路程


解放直後、キリスト教を中心とした7年の出発摂理路程で聖進様の生母・崔先吉女史はアダム家庭において不信したエバの立場に落ちた。それでやむを得ず、天は協会創立前後2次7年路程で喜進様の生母・金明熙(キム・ミョンヒ)(陰1930.10.23)女史を第二アダム・​イエスの時代、ザカリヤとエリサベツの前のマリアの立場で選んで立てられた。摂理路程再出発の時はすでに到来したが、崔先吉(チェ・ソンギル)女史はみ旨の使命の位置から顔を背けて久しかった。(459)​


金女史は平安北道朔州(サクジュ)出身で亡父が牧会をされる敬虔なクリスチャンの家庭環境で育った。1947年南下した後、肺結核を患い6.25動乱にあうなど、あらゆる試練と難関の中でも母親と弟の世話をしながら、信仰と学業を続けた。1952年釜山避難時、延世大に入学して勉強している途中、1953年の秋、ソウル還都に上京した後、9月に真のお父様にお会いした。母親とは姑從四寸(コジョンサチョン/いとこ)の妻となる叔母ヤン・ユンシン氏の勧めで、その姉ヤン・ユニョン教授と共に当時清渓川(チョンケチョン)の旅館におられた真のお父様を訪ねて、強力な口調の印象深いみ言葉を聞くようになったのだ。(459)​


そして1954年1月7日、釜山影島(ヨンド)特別復興会に参加し霊的な役事とみ言葉の恩賜を受けて入教した後、すぐにみ旨の道に献身された。セデモン教会時代、真のお父様は金明熙(キム・ミョンヒ)女史と延世大同期生である崔淳実(チェ・スンシル)氏、その妹・崔淳華(チェ・スンファ)氏を三位基台に結んでくださった。その時、 "君たちは今後結婚できない。供物である。」とお話されたそうだ。(459)​


マリアはガブリエル天使長を通した天の指示に絶対服従して婚約者ヨセフを騙して祭司長ザカリヤからイエスを受胎して出産した。天使長が騙して奪っていった天の血統を復帰して原罪ない本然のアダムを取り戻す摂理だった。そしてその家族が当時摂理的なアダム国家イスラエルの前にエバ国家の立場であるエジプトに逃れ蕩減路程を経て戻ってきた。金明熙(キム・ミョンヒ)女史はその歴史にしこりとなったものを蕩減する運命の道を歩んだのだ。摂理的ヨセフの立場の青年食口として信頼が深かった同窓生・吳氏を同行してエバの国日本に密航した。そして彼の協助の中で喜進(1955.8.17(陰6.30))氏を生んで極難な冒険の蕩減の道を3年以上経験した。(460)​


金女史は最初の密航に失敗し、釜山にとどまっていた当時、李大・延大事件の竜巻が押し寄せる差し迫った状況下で乗船を急いだ。そして1955年6月24日、釜山港の近くから出航に成功して長崎県北九州市小倉に移り、1,2ヶ月を過ごして再び東京に上がった。東京でも不安と緊張の環境で世田谷区奧澤でしばらく過ごしてから、隣接する目黒区学芸大学の近くに移った。その後、再び近くの大岡山の桜荘に移って過ごした。(460)


続いて大田区雪谷に移って過していた頃、1958年7,8月頃に密入国の容疑で捕まり長崎の大村収容所に移送された。そこで8ヶ月滞在して、1959年3月31日に下関港を出航し、4月1日、釜山多大浦港を通して送還、帰国した。(460)​​


そのような逆境の日本生活の中でも、金女史は暇が出来次第、神のみ霊を受けた人士たちを探してみ旨を伝え、宣教的努力を続ける密使の本分を果たそうとした。真のお父様は苦労されて機会ごとに人づてに書信と費用を送って下さったそうだ。当時の摂理的計画は、喜進様母子が勝利の帰還をしたときに、民族基盤で歓待して栄光の成婚に至ることだった。しかし、随行員の吳氏が途中で帰国した後、数回送金しながら後援してたが、み旨の道から徐々に遠ざかった。(460)


金女史は一人で喜進様を養育していた中、東京警察が背後でけしかけた近隣の日本人の侵犯加害で挫折したマリアの立場に処してしまったただお一人、尊い天の息子・喜進様を死守し保護するためのすさまじい母情の犠牲だったである。それがまさに大村収容所に向う直前だったので、これほどもどかしく哀痛なことがまたとあるだろうか。日本は真の父母様の家庭の再出発のためのエバの蕩減復帰歴史を誤まった痛恨の恩讐の立場に立った(461)


喜進様は尊い天の息子として生まれたが遷都を立てるまで愛の父子の因縁を結べなかった。他国の客郷・寒地で痛ましく誕生された真のお父様の次子・喜進様は摂理史の第1号殉教者として客死の道を行かれた。最終的には第二アダム・イエスが客郷で誕生し客死の供物になられたのと同じ運命だった


喜進様は中学生時代の1969年夏、成和学生原理修練を受けてから、自分が人類の真の父母様の真の子女であることに感激した。沸きあがる孝心と煮えたぎるみ旨に対する情熱に負けて、弱冠15歳で自願して慶北金泉を任地として開拓伝道の道に旅立たれた。だが、その日、8月1日、忠清北道梅浦(メポ)駅近くで予想外の列車事故で殉教の供物になられたのだ。真に切なく崇高なアベルの犠牲の道にほかならなかった。(462)​


国と教会を愛せない恨よりも天が立てた家庭を完全に愛することができなかった真のお父様の悲痛きわまる恨!その挫折の節目ごとにどれほど深く深い慟哭に慟哭を重ねられたことか!金明熙(キム・ミョンヒ)女史は、その母子の犠牲の運命に置いて真のお父様が大声慟哭される姿を三度も見たと述懐した。天が反対して食口が反対すれば冷水を備えてでも成婚に至らなければならないとおっしゃり、実に哀惜されたそうだ。(462)


そのような真の父母様の40年蕩減路程の勝利的基盤と共に金明熙(キム・ミョンヒ)女史は不変の祈りの精誠で真の父母様の家庭とみ旨のために絶対信仰の生涯を生きた。これを土台に1998年6月13日3億6千万双1次祝福式のとき、喜進様はナ・ヘシン様と霊人祝福を受けた。そしてこの日、金明熙(キム・ミョンヒ)女史は賢哲・ソクラテス(B.C469〜399)を夫に迎え、霊肉界の家庭祝福を受けた。(462)​


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