シャボン玉のブログ

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削除された姜先生の回顧録 第二章 その9 一心教との出会い

私の証拠的生涯(=主を証しする私の生涯)
韓半島に降臨された再臨主

 姜賢實(カン・ヒョンシル)

第二章  ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
  ● 御言葉を宣布する生活
   ▲ 一心教との出会い


大田(テジョン)からソウルに上がってきて、1954年5月3日協会創立行事に参席しました。協会創立行事は5月3日だったのですが、お父様が5月1日を創立記念日として定めようと言われ、今まで5月1日を創立記念日として記念してきています。



協会創立写真をよく見ると、笠をかぶった老人一人が中に入っています。その人は一心教代表として協会創立行事に参席しました。当時一心教の信徒たちは全羅北道(チョルラプクド)金堤(キムジェ)に集まって住みながら、ソウルに上がってきて白い帯を肩からかけて叫びました。帯には、「イエス再臨の便りが来た」と書いてありました。彼らは青瓦台(チョンワデ)、中央庁、官公署を訪ね回りながら、「イエスが韓国に来たという便りを伝える為に来た!」と大胆に叫びました。劉孝敏(ユヒョミン)氏が彼らのうちの一人を「西大門(ソデムン)の家」に連れて来て、一心教の内歴について聞くことになり、その人が創立行事にも参席することになったのです。

彼らの教主は姜大成(カン・デソン)という人でした。その教主は、1945年8月15日に韓国が日本から解放されるという啓示を受けて予言した人でした。お父様は協会創立行事の後、私に、彼らが一年に一回ずつ開く大祭(たいさい)に参席するように言われました。陰暦の4月8日には、彼らは神様に大祭を捧げます。大祭である陰暦の4月8日をひかえ、三日前にソウルを離れて金堤(キムジェ)に向かいました。


▲左写真は姜大成教主の肖像画。 右写真の中央が姜大成教主と、後ろは弟子たち

彼らは全羅北道金堤郡(キムジェグン)廣活面(グァンファルミョン)學堂里(ハクダンニ​​)というところに集まって住んでいました。私はその日の午後、真っ黒なビロードのチマに白いチョゴリを着て大門の中に入りました。姜大成(カン・デソン)教主は風采が非常に良い人で、白い韓服を着ていました。

姜教主は、私を見て、「この家は、神様を祀(まつ)った家なので、真っ黒なチマをはいては入ることができない」と言って入れてくれませんでした。それでそこの人たちが、「今すぐ出て行け!」と私を追い出そうとしたのですが、私はあわてずに、もっと大きな声で堂々と、「私は教主様に会うために遠いソウルからわざわざ訪ねてきた者です。このように薄情に対してはいけません」と言いました。すると彼はしぶしぶ、「本当にそうなら、部屋の中には入れないが、床にちょっと座りなさい」と言いました。

床に座ったら、彼はまた私を叱りました。「韓国人がなぜ髪を焼いて(パーマをして)いますか?韓国人は韓国人らしくかんざしを刺さないと」と言うのです。

私はいじけずに、「おじいさんはなぜ他人の私生活を心配しますか?私はすべてのことを神様に聞いて暮らしている者なので心配をしないで下さい」と答えました。

しかし、私の言葉が終わるやいなや、その教主はドシンと音を立ててそのまま後ろに倒れてしまいました。10分、20分しても起きません。すると、主だった弟子数人が声をあげながら、私に掴みかかりました。

「何やら狐みたいな女がソウルから来たと思ったら、私たちの先生を殺してしまった」と言いながら、彼らは慌てた様子でした。医者を呼んで来いと言いながら、私には自分たちの教主を生き返らせろと脅しました。私は心の中では驚きましたが大胆に、「ご覧のように私はこの床の隅に座っていただけで、手一つつけませんでした」と言いました。すると、「この女は妖術をするのか気合術をするのか分からないが、とにかく大変なことになった」と言いました。教主が意識を失ったので、家中がそれこそひっくり返ったのでした。

幸いなことに、しばらく後に教主が意識を取り戻して、起きて座りました。姜教主は、「私は入神して霊界に言って見たところ、この婦人の霊的な位置が自分の位置よりもはるかに高い」と言い、「この婦人がここにいる間、食事やすべてのおもてなしを私にするのと同じようによくしなさい」と指示したのです。

このような姜教主の指示に従って私は手厚いもてなしを受けました。お粥だけでも松の実のお粥や、ごまのお粥、いくつかの果物と蒸した鶏肉も用意してくれました。それは、苦労をして御言葉を宣布していた時代だったので、そのようなもてなしがめずらしくもあり驚きもしました。

いよいよ陰暦4月8日になりました。全国に散在している一心教信徒たちが集まりました。数百人が集まりましたが、大人は髷(まげ)を結(ゆ)い、独身男性は頭を長く編んで垂らしていたり、婦人たちは白い服にかんざしを刺していました。もちろん独身女性たちも髪を結って垂らしていました。大祭は、牛や豚を屠(ほふ)り、これ以上できないほど盛大に供えて過ごしました。

姜教主は大祭をしながら、私に、聴衆に一つ話をするように言いました。私は、「神の摂理と韓国」という主題で話しました。「選ばれた韓国の人々は、世界の前に一番になる民族です。したがって、すべての面で誇ることができる内容を持って暮らさなければならず、人倫的な面で万民の前に見本となる個人や家庭、民族にならなければなりません」と、40分余り御言葉を伝えたところ、聴衆は皆感銘を受けて喜びました。

しかし、奇妙なことは、私が訪ねて行ったその日から、そこに艱難の風が吹き始めたことです。まず、その家庭に大きな不和が起こりました。姜大成教主には夫人が二人いました。ところで、夫人と妾の他に18歳くらいの若い女性が付き添っていました。その若い娘が姜教主の付き添いをしながら、近い間柄であるようでした。私が到着した日から教主と夫人が、その若い娘が原因で夫婦喧嘩を始めました。

夫婦喧嘩をしたあげく、教主は自分の位置と状況をわきまえず、夫人を殴ろうとしました。夫人は教主から逃げ、教主は妻をつかまえようと後を追ったりしました。大祭の準備をしているのに全く笑うこともできない光景でした。

呆れてその光景を見ていると、不思議な幻が見えました。教主の姿が人は人ですが、頭がない人に見えました。その幻を見て、「ああ、この人は何か神様の御旨を知ってはいるが、人格修養が足らず中心がないのだな!中心のない内容を持ってやってきたな!」ということが感じられました。

大祭を執り行う前に、私は姜教主に神の二性性相を説明しました。しかし、私が言う話は納得せず、ただ自分の話だけが正しいというふうに話をし続けました。私は創造原理を中心に、神様に関する御言葉を伝えました。一心教は陰陽の調和を話している所であるので、神様が陰陽としておられるということを言ったのですが、私が言う言葉を全く聞かずに話をさえぎりながら自分の話だけするのでした。

教主が人格的に不足しているように見え、従う人々もそれなりの限界がありました。大祭の後に祭壇に供えておいた食べ物をお互いに分け合い、宴(えん)が繰り広げられのですが、宴の場ではなく、争いの場となってしまいました。信徒同士のけんかが起こって激高し、鎌を持って暴れる人までいました。私は、「人格修養が不足している人々だなあ」と切なさを感じながら、全羅北道全州(チョンジュ)に行きました。

後で聞いたところ、結局、姜教主が惑世誣民(わくせぶみん=世人を惑わしだます)という疑いを受けて留置場に入って死んだということでした。マスコミで、姜教主が死亡した後に18歳になる若い女性と霊魂結婚式をしたという報道がされたのも見ました。私が行った時に夫人と喧嘩が起こったときの、その若い女性ではないかとふと思ってみました。

その後、お父様が私に話して下さった言葉があります。「姜賢實、お前はいつも勇敢で、堂々と出るべきである。真理を宣布する者だからこそ、誰よりも大胆に出て戦わなければならない。この原理は、今まで隠されていた秘密であり、お父様を中心として出てきた御言葉をこの時代の人々が信じれば福を受けるが、反対すれば審判を受ける。だから御言葉を宣布する時は、信念と確信を持って堂々としなければならない。姜賢實が御言葉を伝える時、聞く者が疑ったり反対をするならば、必ずその人に良くない役事が起こるだろう」とおっしゃいました。


その後も伝道中に一心教の信者に時々会うことができました。一心教信者の家には旗が立っています。全羅道地域に多く住んでいますが、旗がある家に行けば、大祭の時に私を見た人々が多くいて、常に丁重(ていちょう)なもてなしを受けました。それで全羅道地域で伝道をするときは、大きな苦労はしませんでした。

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