シャボン玉のブログ

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削除された姜先生の回顧録(第2部)その11 崔先吉女史と7.4事件

私の証拠的生涯(=主を証しする私の生涯)
韓半島に降臨された再臨主

 姜賢實(カン・ヒョンシル)

第2部  ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
 ● 御言葉を宣布する生活
  
 ソウルでの生活 



▲北鶴洞にあった最初の本部教会
(ソウル城東区北鶴洞の三大門教会で、世界基督教統一神霊協会が創立された)

 
ソウル城東区(ソンドング)北鶴洞(プッカクドン)391-6番地の三大門(セデムン)教会では劉孝敏(ユ・ヒョミン)氏を中心に、風景写真を撮って複写して売る事業を始めました。李秀卿(イ・スギョン)氏は、道端に座って絵に色を塗って売りながらお金を得ました。

その後、複写した写真がそれなりによく売れて生活の助けになりました。販売する写真を準備するために夜遅くまで写真を複写したあとには、その写真を洗わなければなりませんが、薬が強くて手が絵の具が染みついたように黄色くなってひび割れました。




ある日、お父様がコールドクリームの大きいものを買って来られました。お父様は、「大きいと言ってむやみに使わず節約して使いなさい」と言って笑われました。

その家には水道がなく、井戸だけがありました。しかし、その井戸水は飲み水として使えませんでした。それで、理髪店をしていた隣から飲み水を汲んで来て使いました。しかし、他人の家に朝から水を汲みに行くことができなくて、いつも気をつけて様子を見なければなりませんでした。

狭くてみすぼらしい家で服を着替える空間もありませんでした。いつかある時、三大門教会時代の食口が私に、「お姉さん、昔は着替える所もなく、台所で着替えて苦労していた時のことを思い出しますね」と言ったので、お互いに笑ったことがあります。

劉孝元(ユ・ヒョウォン)初代協会長は、御言葉を聞きに来る人々に斜めに横になって語られました。お父様が隣に座って話を聞かれる時もありました。時には御言葉を聞かれながらもどかしくなると、直接立ち上がって御言葉を話すこともされました。そんな時には、主にイエス様の心情、事情、立場、使命、そして神様の苦痛に対して清山流水のように御言葉を話されました。

 ※靑山流水(せいざんりゅうすい / 청산유수):弁舌(べんぜつ)がさわやかなこと
 

当時の生活は依然として厳しいものでした。お父様の食事を準備するのも大変なほどでした。すると米屋への借金が一日一日増えていきました。そんなある日、米屋がこれから掛け売りはできないと言いました。私はどうすればいいのか心配になりました。

そのようにしばらく心配ばかりしていると、李得三(イ・ドゥクサム)お姉さんが小麦粉を布袋2つ分、タクシーに乗せて来ました。その時、李得三(イ・ドゥクサム)お姉さんを見て、救い主に出会ったかのように嬉しかったです。突き当りにぶつかるたびに、難しいことが起こるたびに、誰かを通してでも神様が役事されていることがわかりました。 

1955年初め、東大門(トンデムン)興仁洞(フンインドン)251-44番地に引っ越しをしました。小さな家にいてから大きな家に引っ越したので嬉しかったです。興仁洞(フンインドン)の家から新しい役事の炎が起こりました。女子大生がたくさん入ってきており、新しい食口たちが増え始めました。集会場所は広くはなく、ぎゅうぎゅう詰めになり、遅れてくる人たちは外で立って礼拝に参加しました。

お父様は血と汗と涙にまみれ、痛哭されながらお話しされました。御言葉が最高の境地に達したときは、息が止まったかのように切なく悲しまれました。心が正しく立っている真の人であれば、膝を屈して共に同化せざるをえない雰囲気でした。写真業でお金もたくさん集まり、人もたくさん集まり、本当に教会が興(おこ)りました。

三大門(セデムン)教会でつながっていた崔元福(チェ・ウォンボク)、金永雲(キム・ヨンウン)先生も興仁洞(フンインドン)で実を結び、黄煥寀(ファン・ファンチェ)氏など多くの食口たちが繋がりました。三大門(セデムン)教会では百人余りの人が御言葉を聞くことは聞きましたが、実を結ぶことはできていませんでした。


三大門(セデムン)教会にいたときには、劉孝元(ユ・ヒョウォン)協会長が御言葉をいくら伝えても実が結ばれなくて苦労しました。ある日、私を見て、「賢實(ヒョンシル)さん、なぜこのように伝道がうまくいかないのでしょうか?数カ月も御言葉を伝えたのに、食口になる人が一人もいないですね。どうすれば伝道ができるでしょうか?」と言い、残念がることもありました。そうだったので、興仁洞(フンインドン)で一人一人結実を成すたびに、お父様が大変喜ばれたのでした。

 ▲ 奨忠洞(チャンチュンドン)教会と7.4(ななよん)事件

          ※7.4事件:1955年7月4日、お父様の西大門刑務所収監
 



▲当時の西大門刑務所


そのように人が多く集まる興仁洞(フンインドン)から、奨忠洞(チャンチュンドン)に引っ越しをしました。ところが、引越ししてすぐに問題が起こり始めました。人々が集まると、キリスト教と社会が色メガネで見て、小さなことから大きなことまで問題になりました。毎日のように中部警察署の刑事たちが出入りしたのです。

ひとしきりごたごたしていた1955年7月2日、崔先吉(チェ・ソンギル)夫人が奨忠洞教会を探してやって来ました。来るやいなや、お父様がおられた部屋の中に入っていきました。お父様と話をしていた崔女史は、突然ゴムのはき物でお父様の顔を叩き始めました。誰にもわからないようにゴム靴を後ろに隠してもっていたのです。

お父様は何も言わずにただ打たれておられました。私と金仁珠(キム・インジュ)勧士が横にいたので、駆けつけてゴム靴を奪いましたが、その時のお父様の表情が今でも忘れられません。お父様は崔夫人を叱りもされないで、ただじっと耐えておられました。後になって私は、「どんな事でも起こる時には起こるのだな」と思いました。




二日後の7月4日、お父様が警察署に連行され、西大門(ソデムン)刑務所に収監されました。崔女史とキリスト教界が一つになって風紀紊乱(ふうきびんらん)などの疑いで告発したのですが、容疑は適用されず、兵役忌避(へいえききひ)の疑いで裁判を受けることになりました。その間新聞には、統一教に対する悪い記事は言い表すことができないほどたくさん載りました。顔を上げて歩くことができないほど恥ずかしい内容が多かったです。

それでも西大門刑務所に面会に行くたびに、お父様は伝道の話だけをされました。お父様は人の命を救うために狂っておられるようでした。その時私は、「今、外の状況は伝道をすることができる状況ではありません」ということを申し上げました。しかし、お父様は、「それが何の関係があるのか?真理は常に勝利するのである。だから休まず伝えなさい」と言われました。そして、教授の誰々、長老の誰々、牧師の誰々などと名前を挙げられ、会いに行くように催促されました。

その確固とされたお父様の姿を見ながら、私はまた深い感動を受けました。「普通の人であればそのような状況の中で落ちこみ、将来への不安と絶望を感じるのに、お父様は本当に神と共におられる方であるな!」という事を感じました。

お父様が西大門(ソデムン)刑務所におられる間、食口が一つに団結しました。主日(聖日)の説教は初めは安昌成(アン・チャンソン)先生がしましたが、徐々に私がするようになりました。師匠を失ってさびしく祭壇を立てた教会の姿は、本当に神様が来られて役事されざるを得ない雰囲気でした。

90日の間、お父様もおられないし、経済的にも過酷な状況でした。それで私たちは庭に植えておいたカボチャを毎日のように採って煮た味噌汁だけを飲んで暮らしました。

そうしていた中、ある日、崔先吉(チェ・ソンギル)女史が手押し車に引っ越しの荷物を運んで来ました。お父様が奨忠洞(チャンチュンドン)教会におられるので自分も奨忠洞教会に引っ越して来ると言って荷物を持って入ろうとしたのです。食口たちは、「ここは先生の家ではなく教会であり、教会に奉仕する食口たちが住んでいるので、入ることはできません」と言いました。すると崔女史は興奮しながら引っ越しの荷物を投げ始めるのでした。食口たちがこれを防ごうとしばらくもみ合いをしたこともあったのです。そのような写真が新聞に出たりしました。

食口たちが完全に門を閉め鍵をかけて受け入れてくれなかったため、崔女史は西大門刑務所におられたお父様を訪ねて行きました。「私はあなたの妻なのに、食口たちが教会に入れないようにします。あなたの家であり、私はあなたの妻なので、当然入って行くことができるのではないですか」と言いました。するとお父様は、「その教会は私のものではない。食口たちがお金を集めて準備したものだから権利があるなら信徒にあるのであって、私にはどのような権利もない。だから、教会に入るという考えは最初からしないように」と言われました。結局、崔女史は奨忠洞教会に引っ越してくるのをあきらめて帰って行きました。

苦痛も多かったですが、恩賜(おんし)も多かったです。金山(キムサン)長老と鶏龍山(ケリョンサン)の道人など、啓示を受けた人々が訪ねてきて、お父様をメシヤとして証ししました。

ある日、金山(キムサン)長老が霊的に啓示を受けて奨忠洞教会を訪ねて来ました。彼は祈祷の中で、「文鮮明先生は再臨主になられる方です。今は獄中で受難に遭っておられますが、遠い後日、いつかは人類の救世主として登場できる日が必ず来るでしょう」という啓示を受けて奨忠洞教会を訪ねて来たのです。

はじめは教会がどこにあるか分からず、路地で遊んでいた子供たちに、「統一教がどこにあるのか」と尋ねたそうです。すると子供たちが、「統一教って何?」と言ったので、「文鮮明先生が礼拝をする教会が統一教だ」と言うと、「そこに行けば地獄に行くんだって。そこは異端だって。そこはだめになったよ」と言いながら道を教えてくれたということです。

子供たちが教えてくれた道に従ってその人が教会に到着したとき、私たちは礼拝をささげている最中でした。彼は教会に到着するとすぐに中に入りました。そして、礼拝中に突然、「私がちょっと言うべき話があります」と言いながら前に出ました。最初、食口たちはびっくりして驚きましたが、お父様が人類の救世主だと証しますという彼の言葉に、食口たちみんな感動を受けました。師匠を失って寂しく礼拝を捧げていたので、神様は金山(キムサン)長老を送って、私たちに力を与えて下さったのです。そして、彼が教会を訪ねて来る時の話をしながら、「町内の路地で遊ぶ子供たちも分かるくらい統一教が有名になったとは、まことに奇異なことだ」と言って食口たちを笑わせました。 

1955年7月初めのある日は、智異山(チリサン)で千日間修道した三人が訪ねて来ました。その三人は千日の間、智異山(チリサン)に登って祈祷をしました。祈祷を始めて千日になった日に答えが来ました。「お前たちが千日ここで祈祷したのは、統一教・文鮮明先生に会う為の準備だった。今、祈祷を終えて家に帰る前にソウルにいる文鮮明先生に会いに行け」という声が聞こえてきたというのです。そして、三人とも同じ啓示を受けました。

三人は千日祈祷を終えて、それまで長くした髪を結ってぐるっと巻きあげ、そのままの姿で奨忠洞教会を訪ねて来ました。早朝から急いでソウルに来て、統一教がどこなのかいろいろな人に聞いて探して来たのでしたが、その時は礼拝が終わる頃でした。

礼拝が終わってから三人のうちの一人が、「言うべき話があります」と言い、啓示を受けた内容を話しました。「今は、文鮮明先生が獄中で苦労しておられますが、この方は世界の人類の前に救世主として来られた方です。今日、我々は文鮮明先生が立てられた統一教を訪問したので、これがどれほどうれしい事でしょうか?」と言いながら三人は踵をあげて踊り始めたのです。かなり広い礼拝堂をぐるぐる回りながら踊りを踊った光景は壮観でした。

「私たちが沈んで、力を失ってしまって落胆しているとき、神様が外部の人を送って力を出すように証しをさせ、激励もして下さり、踊らせたりもされるんだ」と思いながら慰労を受けました。




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