シャボン玉のブログ

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姜賢實先生の自叙伝・ 第三章・その8 懺悔(ざんげ)の祈り

第3章 超教派の最前線で
   宗教和合の道、超教派  
   
 ▲ 懺悔(ざんげ)の祈り


1984年6月6日、事務所に行かずに家で夜明けから夕方まで熱心に祈りました。その日は、お父様が米国で脱税容疑により裁判を受けられた日です。お父様を思いながら、「今は神様にこのことを任せて、懇切な祈祷でお願いする道しかない」と思いました。「神様、私たちのお父様を助けて下さらねばなりません。このすべての難しい問題を神様が解決して下さり、御旨の中で良い道を開いて下さい」という内容でもって夜明けから夕方まで懇切に祈祷を捧げました。そうして祈りを終えてみると夜10時でした。その日私は三千回神様にお父様を助けて下さいと哀願しました。その三千回の中には、表現しようもないくらい、懇切さと哀痛さ、そして残念さが含まれていました。私は他の考えは一切せずに狂った者のように、「神様、どうか助けて下さい」と哀切な心で神様にすがりつきました。


昔、イスラエル民族に向かって神様が、「牛はその主人を知り、ロバはその主人の飼い葉桶を知っているのに、イスラエルは生きた神がわからずに背いたのだ」と嘆かれました。お父様は長い年月の間、貴い御言葉を伝えられましたが、まだ悟ることができない我々に神様が最後に悔い改めることができる機会を下さったようでした。それでもいまだ食口たちは悔い改めないので、お父様は自ら私たちの罪を背負っていばらの道を行かれるようになるものと思われました。



ダンべリーの苦難を通して、私は、統一教会の食口たちが犯した罪が天に沁み渡るほどに大きいということを感じました。「私の過ちでお父様が獄中の蕩減の道を行かれるなんて....許して下さい!」という祈りが自然に出ました。祈りの時間ごとに熱い涙が止まりませんでした。


神様はすべての内容を教えてくださったのに人間が責任分担をすべて果たすことができず、再び来られた主にしっかりと侍ることができない私たちは大逆罪人であることは間違いありません。お父様の心情を慰労して差し上げ、お父様が勝利されるように精誠を尽くすのが私たちの責任でした。


しかし、お父様が裁判を受けられ、ダンべリーに収監されることになってしまったとき、私は眠れませんでした。「望まれないところでどれほど苦労の日々を送られるのか?」と心配になりましたが、私は遠くから祈ることしかできませんでした。精誠を捧げることだけが、私たちがしなければならない責任でした。世の中で一番つらいことは自由の無い拘束の生活です。しかし、お父様は西大門刑務所でそうされたように、ご自身の立場は一つも考えられず、ただ神様の御旨と人類の将来を心配して祈られました。


そんなお父様が苦難にあわれるようになることは、すべて食口たちが責任を果たせなかったからです。私たちの精誠が不足でお父様が苦難に遭われたのです。食口たちが神様の恨を解いて差し上げ、神様の心を動かしたなら裁判の結果が変わることもできたはずです。しかし、私たちが御旨に従いながらも間違ったことがあまりにも多く、不足な部分があまりにも多くて、お父様にしっかりと侍ることができず、神様の基準を満たすことができませんでした。神様の実体として来られたお父様をそのような苦難にあわせたのであり、千万回死んでも足りない親不孝を犯したのです。許しも、容認も受けられない親不孝でした。心情的に、生活的に、お父様を十字架につけたのと同じ痛みにあわせたのです。


私は、韓国で一番最初に御旨の前に導かれた者として深く責任を感じました。お父様が私のためにどれだけ多くの苦痛を受けられ、祈られたかを考えると、いっそう胸が痛みました。それで、私はお父様がダンベリーで無事に勝利し出て来られる時まで、できる責任分担をすべてしようと努力しました。徹夜祈祷と冷水浴などを休みなくし、超教派連合運動ももっと熱心にしました。


1985年真の父母様に差し上げた手紙と、1987年に超教派運動をしながら書いた日記のうち一つをご紹介したいと思います。



<真の父母様に差し上げた手紙>


1985年の新年を迎え、お父様の娘、賢實(ヒョンシル)は心と体、精誠を尽くして挨拶を申し上げます。お父様のご聖体が健康であられ、天の父母様の大いなる愛が共にあることを信じます。


天と地のすべての命を救わねばならない大いなる責任を負って、人々に天の愛を浸透させるために60余年の歳月を血と汗と涙、そしてすべての津液(じんえき)を全部注ぎ込んだお父様であられました。


時間が経つにつれ、私のお父様は貴い方であり、六千年の歴史を来て行ったすべての人の価値を合わせた価値よりももっと大きくて、より高い価値を持っておられることを切に感じます。世界は暗くて見えず、また感じることができませんが、私はこのように大いなるお父様を知って、信じて、仕えて生きていることが本当に夢のような現実です。


世の中が皆否定しても、私は数百パーセントの信念と確信を持って無知な人々に真の父母様を証します。


お父様、どれほど私たちが本当に懺悔して悔い改めなければならないのか分からず、ただ胸が苦しくして気が狂うようです。子女である私たちの過ちでお父様が苦労され、供物となった立場でいばらの道を行かれると思うと「殺して下さい」と頭を下げるしかありません。他の人の罪ではなく、私の罪だからです。


お父様は、この地上に神様の御旨を成しておこうと、死の峠の道を越えて茨(いばら)の道をかきわけながら歩んで来られました。そのように生きてきたお父様の代身者になるために必死の努力を惜しみません。統一食口たちは、これまで神様を不信し、父母様をも不信し、不従順で親孝行できないまま兄弟同士が互いに仲違いして生きてきました。神は愛であられるので、そのすべての過ちを許して下さろうと最後の機会をもう一度与えられたと思います。


問題は、統一食口たちが心を一つにし、御旨を一つとして、神様が望まれる御旨を成して差し上げるために、私たちの父母様を全心を尽くして信じるのかということです。食口達の中には、当代では御旨が成されないと釘をさして話す者もいます。


私は彼らに、御旨は私たちの行動如何によって成されるものであり、必ず私たちのお父様の当代で成されるのだと説得します。私はそう信じています。もう、私の心ではすでに御旨は成されています。また、環境と全体の御旨を成しておかなければなりません。


カナンは信じる者だけが入れるところです。ヨシュアとカレブは強く大胆であったし、また信念と確信を持っていたので、2世達と共にカナンに入城しました。


今日の統一食口たちは、ヨシュアとカレブ以上の信念と確信を持たねばなりません。私は、ヨシュアとカレブのもっていた信仰の数十倍を下さいと祈祷ばかりしているのではなく、私には、彼らよりもっと大きな信仰が血と肉と骨の中で湧き上がって出てきているのです。


お父様、安心して下さい。望まれ、願われた期待に背かないように全力を尽くします。神様の全能を私は全心で信じています。心のすべてで神様を信じて追うとき、神様に会うようになり、全心で神様に向かう私に、神様が能力を与えて下さると確信しています。


お父様、超教派活動に多くの期待と願いを持っておられることを知っています。あまりにも上層部で反対をしたため、これまで私たちを冷遇し恐れていた既成教会の牧師、長老、女性信徒たちが、自分たちも知らないうちに超教派運動​に引きずられてきています。計画して目的とした数に達しています。


霊界で協助していることを私は確信します。集会のたびに私たちの背後には、生きておられる神様が共にいらっしゃることを、私ははっきりと見てきました。また、固く信じています。


今年はさらに大きく役事されるでしょう。私たちが神様と真の父母様を信じるほど、また心を尽くして働くほど、役事して下さるでしょう。私の願いは、信仰の宗主国である韓国の宗教界が神様の摂理を知って、私たちのお父様を来られた主人公と信じて侍ることができるその日を見ることです。全世界の前に真の父母様が、その明るい光を輝かせて顕現されるその日を成しておくために全心全霊を注ぎます。必ずそうなるでしょう。


共に働いている食口たちに、私はいつも話をします。「できないとは思ってはいけない。できないと思っている者にはできない結果が来る。神様が共にされればできないことがないので、必ずできるという確信と自信を持って最善を尽くそう!」と言います。キリスト教と統一教会が一つにならなければ、神様の御旨を成し遂げるのが難しいと思います。


お父様、時が近づいています。御言葉を聞いている聖女会の会員たちを見ればわかります。彼女たちは御言葉を聞いて、あまりにも喜んで、また狂った人のように跳ね回っています。彼女たちは統一食口ではなく、既成教会の信徒なのにもかかわらず、私が語っているときに大声で、「アーメン、アーメン」と言いながら恩恵を受け入れているのを見て、「これは韓国の片隅で起きていることだが、今後、世界が父母様の御言葉の前に屈服して入ってくることを見せてくれているのだ」と思って、神様に心から感謝しました。


私は年末に既成教会の信徒たちからたくさんの贈り物をいただきました。このすべての栄光は、私が受けるのではなく真の父母様が受けねばならないものです。


このように、既成教会の信徒たちの心が動いていることをみると、やがて、世界のキリスト教が父母様の前に、原理の御言葉の前に頭を下げるものと私は確信します。


私自身が真実と真情で神様の御旨のために、また、真の父母様の為の一心で動いたならば、神様が必ず訪ねて来られて大きく役事して下さることと信じます。


32年という歳月の間、既成教会の信徒たちからたくさんの反対の矢を受けてきました。頭からつま先までその矢が打ち込まれて、もうこれ以上もはや打ち込まれる所もありません。彼らがお父様に反対して妬(ねた)み、嫉妬(しっと)で迫害するたびに、それを私が代わりに受けますので、その矢を私に回してほしいという気持ちで受けてきました。


私に対して良くないことを言う時はたいして気分が悪くなかったのですが、お父様に対する悪口を聞く時は、あまりにも心が傷つき悔しい気持ちも生じて、夜も眠れず泣いたこともたくさんありました。しかし、すぐに私は気持ちを切り変えて、ありがたい気持ちと感謝の心で、「私たちのことを知らずにあのようにしているので許して下さい!」と祈祷しました。


今ではその土台の上で、既成教会の信徒たちの愛を私の心と体に持つようになりました。真心(しんしん)から精誠の祭壇を築いている食口たちの祈りは天に届くでしょう。やがて彼らが私たちと共に精誠を捧げる日が来るでしょう。


神様の手厚い愛が私たちの真の父母様と末長く共にいて下さることを、手を合わせひれ伏して祈っています。真の父母様の萬寿無疆(ばんじゅむきょう)を願いながら筆をおきます。


萬壽無彊(만수무강・ばんじゅむきょう):寿命が永遠なること


1985年1月16日の夜11時30分
ソウルの片隅にて、娘、賢實拝


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