シャボン玉のブログ

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姜賢實先生の自叙伝・ 第三章・その9 精誠の込められた祭物

間が少し開いてしまいましたが、第三章の最終章です。
姜先生の日記や御父母様への手紙になっています。


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第3章 超教派の最前線で
   宗教和合の道、超教派   

    懺悔(ざんげ)の祈り

 <1987年7月21日火曜日の日記>


今日は朝7時30分の飛行機で釜山ボンネッコルに向かった。米国の牧師200人余りと同行した。あまりにも深い感慨の中で、ずっと前にボンネッコルで過ごした日々を回想した。


昔お父様が、お一人でみ旨を成すために心を尽くし涙を流しながら原理原本を執筆された、その時を思うと、それを考えると感激せざるを得なかった。その時のお父様の姿と心情を30分余りの間に精誠を尽くして説明してあげた。


牧師たちは涙岩に登って行き、懇切な心情で涙を流しながら祈った。祈りが終わった後、ある牧師は、平素、物がよく見えないほど視力が悪く、メガネをかけていたが、祈った後、眼鏡をかけなくてもよく見えると言いながら踊りを踊って喜んでいた。またある牧師は、足が痛くて歩くのが大変だったのに、祈った後、足が軽くなって、歩いてみると祈りの前と後では完全に変わったと言って、奇跡が起こったと証もした。


私は、「彼らをしてお父様がどういう方であるかを正しく知って帰れるように、霊的に協助して下さい」と全ての精誠を尽くして祈った。それから昌原(チャンウォン)工業団地を視察して、セマウル号に乗り、ソウルに到着した。



▲1987年、還暦を迎える


1987年に還暦を迎えましたが、特にお祝いをするつもりはありませんでした。しかし、真の父母様が特別に還暦の宴を開くように言われて、従順な心で還暦祝賀会を開くことにしました。(以下は)その祝賀会に参加した人々に捧げた感謝の挨拶の言葉と、祝宴が終わった後に真の父母様に捧げた感謝の手紙です。


<還暦祝賀の挨拶>


公私多忙でいらっしゃるにもかかわらず、不足なこの者のこの日を祝って下さるために、財団の理事長をはじめ、機関長、企業体の長、食口の皆さん、そして家族や友人や親戚にまず心から感謝を申し上げます。


そして、特に私が愛情をたくさん注いできた、また私をいたわり愛して下さった聖女会員の皆さんに、どのように感謝の挨拶を申し上げ表現していいのかわからず、ただこのように頭を下げて礼を捧げるしかありません。


この時間、私は60年間生きて来て、その中でも統一教会の36年の生活で一番つらく苦しかった経験談をいくつかお話しいたします。


私は、教会をいくつか開拓しながら、引っ越しを幾度もしました。最も多い時は、一日に二回したこともあるので、どれほど多くの引越しをしたのか見当がつくことと思います。手押し車を一つ使うお金がなくて、薪を縄でくくって頭にのせて行ったり、炭袋を頭にのせて行ったことが鮮やかに記憶に残っています。ソウルに上京してきても同じで、転々とする生活をしました。


ある日、教会の年配の方が、そのように引越しばかりしていては伝道もすることができないから、きちんとした部屋でも探してみたらどうかと言ってくださいました。その時は、私は本当にうれしかったです。引越しせずに伝道ができると思ったからでした。


しかし、実際1976年に東部(トンブ)二村洞(イチョンドン)に20坪のアパートを契約した日の夕方は、良かったというよりは、苦痛のほうが大きかったのです。なぜなら、25年間働いた功績が、20坪のアパート一つで帳消しになって無くなってしまい、私には何も残るものがなくなってしまうと思ったからです


私が遠い将来、神様の前で人生を清算する時に、神様が、「おまえは、既に自分が働いた分の見返りを全て受けたではないか」と叱責される声が聞こえてくるようでした。


そのように思いながら三日目に、心の声が聞こえてきました。「その家は、おまえ個人の家ではない。お父様の家だから公館として使いなさい。伝道する時に使えばいいではないか?」と言われた御言葉で解決し、崔元福(チェ・ウォンボク)先生を通じて手紙でその内容を報告申し上げたことがあります。


1976年の旧正月には、ある食口が布団一枚を贈り物としてもってきました。うすい黄緑色の布団で、綿(わた)も最も良いものが使われていました。布団の表には百羽の鶴が刺繍してあるのですが、機械による刺繍ではなく、手で刺繍したものだということでした。その布団を掛ければ、百寿になるといって買ってきたものだというのです。私はその言葉を聞いて、喜びよりも不安が先立ちました。いくら考えても、私はそのように精誠を込めた布団を被る資格がない者だったからです。その真心に報いることのできない者であると思って本当につらかったのです。


その布団は、私が本当に神様の心情に似て、真の父母様を証するのに不足はなく、イエス様の愛を実践することができる資格をもてた時に掛けようと、今もそのまま包んで置いてあります。


数日前にその夫妻がやってきて、「巡回師様、あの布団を使っていらっしゃいますか?」というので、笑いながら、「まだ私は布団を掛ける心の準備ができず、資格も持てないでいるんですよ」と言ったところ、「それでは使われないのですか?」と言われました。その布団が私を困らせ、つらくさせました。しかし、神様の形(かたち)に似るようになった時に、その布団を掛けようという気持ちは持ち続けているのです。


最近、ほんの何日か前に起こった出来事です。還暦は60年に一度巡って来る日です。ある一人の食口が私の還暦を祝うために、数年前から積立貯金をしておいたようです。その人がある日私に、ちょっと会おうと連絡をしてきました。私はそんな事情も知らずに会いに行ったところ、その日貯金を引き出したと言って私を連れ回りながら、たくさんの贈り物を買ってくれました。私は贈り物を受け取る資格がないと断ったのですが、その人は腹を立てて、「私が姜先生に贈り物を買ってあげようと積立貯金までしたのに、どうしても受けとらないと言うなら、私の心はどうなるのですか?」というのでした。そのように本当に腹を立てている姿を見て、「私は人の心を蹂躙する罪を犯しているな」と思いました。だから仕方なく贈り物を受けとりましたが、心の片隅ではずっと、「おまえはそのような愛を受ける資格がまだない」という声が聞こえてきて、「この贈り物が私を困らせ、苦しめるのだなあ」と思いました。


結局、その日贈り物されたものをすべて祈祷室に持ってきて祈りをささげました。


「神様、真の父母様!私はこのすべての物を受ける資格を持っていません。ですから、主が受けて下さいませ!」と祈りました。すると、つらさが少しやわらぎました。


今私は、自分自身にこう問い返してみます。「神様の前に恥ずかしくないように生きて来たのか?歴史の前に恥ずかしくないか?時代的な死亡圏の中でみ旨を成して差し上げるために身もだえし、渇望して絶叫する自分自身の姿が恥ずかしくないか?天地の前に恥ずかしくないか?私の心は催促する天地の大運勢の前に恥ずかしくないか?」と反問してみると、本当に恥ずかしい履歴書だけを残していることがわかりました。これは虚飾ではなく、私の率直な告白です。


もう還暦が過ぎたので、背筋に汗がじりじりと出る思いです。なぜなら、残った日々がそれほど多くないためです。これまで仕事をするにはしましたが、さらけ出して誇るほどの内容を見つけることができません。それなら、私自身のために何かしらでもしておいたことがあるのか?それもありません。


それで私は、「これまで神様のみ旨のために生きたものとして神様が見なして下さらなければなりません」と理屈をこねて自ら慰労したりもします。今日ここに来られた尊い方々の精誠が込められた心と物質によって命の絆を結ぶこともできます。事実、精誠を捧げた物は祭物と同じです。祭物を間違って食べたり、間違って使えば罰を受けるのが天理です。私はこのすべてのものを私が愛する天の父母様、真の父母様に捧げるという思いで、平安な心を持とうと思います。皆さんの心情を蹂躙しないという気持ちで真心を受け取ります。ありがとうございました。


1987年10月12日 姜賢實



<真の父母様に捧げた感謝の手紙>


お父様 、お母様へ


真の父母様、ありがとうございます。
罪悪から救って下さった真の父母様、残る余生ももっと熱心に真の父母様が下命される仕事にすべてをお捧げいたします。今日の祝賀金をお捧げします。


祝賀金以外に、記念品もたくさん手元に入ってきました。記念品のすべては持って来られなかったので、祝賀金だけ父母様に捧げます。


この祝賀金は、統一教会食口、既成教会の信者たち、親しい知人や親戚、外国人たちの心まで含まれています。この献金が、真の父母様と縁を結ぶことができる条件物になるものと信じてお捧げしますので、お受け下さいませ!精誠が込められたものなので、私は使う資格がありません。父母様だけが受けとることができると思われます。


今後は、これまで36年間働いて来たことより、もっと多く大きく仕事をいたします。


1987年10月12日
娘 姜賢實 拝





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