シャボン玉のブログ

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姜賢實先生の自叙伝・第四章 その1 涙の海を成した日本

第四章 世界に御言葉を伝える
 
涙の海を成した日本


1990年12月、お父様が草創期の食口たち22人を呼ばれました。金榮輝(キム・ヨンフィ)会長をはじめとして李耀翰(イ・ヨハン)牧師、崔元福(チェ・ウォンボク)先生、李貞玉(イ・ジョンオク)先生など22人を呼ばれ、「日本を巡回しなさい」と言われました。
それで、半月の間、日本に行って御言葉を伝えました。


そのあと、1991年7月に再び史吉子、鄭大和(チョン・デファ)、徐明鎭(ソ・ミョンジン)巡回師と私を呼ばれ、「今、日本が経済的に困難な時期である。行って食口たちの心情を復興させてくれ」と言われました。


そこで、日本に行くのですが、そこで金明大(キム・ミョンデ)会長がくじをひくように言いました。その結果、鄭大和(チョン・デファ)巡回師が韓日教会、徐明鎭(ソ・ミョンジン)巡回師は天地正教、史吉子(サ・キルジャ)巡回師は教授アカデミーと勝共連合、私は企業体と日本の教会を巡回することになりました。


私は日本の教会と企業を任せられて全国を巡回しました。他の方たちは、1992年世界平和女性連合の創立以来、韓国ではいろいろな仕事が多かったし、お父様からのお話もなかったので、それ以上は日本に行かなかったですが、私には、日本巡回を継続するように言われ、1996年までに何回か巡回をしました。


その時私は、日本を巡回しながら感じたことが多かったです。日本の食口たちの信仰がどれほど優れて立派なのか感動することが多かったです。自分の人生よりも公的なことを優先する信仰でした。さらには、日本の食口の中で教会に献金をするときに借金をしてする場合もありました。ただちに明日食べるお米がないのに献金をします。歯が腐って治療をしなければならないのに、健康を考えないまま、献金をする食口たちもいました。そんな食口たちを見ると、涙が出ざるを得ませんでした。それで、日本巡回をする時には行く所ごとに涙の海になりました。


ある日、私がお父様に、日本を巡回した結果を報告しながら、「お父様、本当に変です。韓国の食口たちのために祈る時それほど涙が出ないのに、日本の食口のために祈ると、熱い涙がやたらにあふれ出ます」と申し上げました。


すると、お父様は、「私も実は日本食口たちには申し訳ない気持ちが多い。可哀相だという思いになる時も多い。自分にある物をすべて献金しても食口たちはむしろ、不足さを感じて申し訳ないと考えているところは、本当にけなげである。韓国の食口たちは、日本食口たちを見るときに、どれほど苦労しているのか、どれほどつらい生活をしているかを分かってあげなくてはいけない。韓国の食口たちは、日本の食口たちがどれだけつらく、苦労して生活しているかが実感できないだろうが、心情的にでも負債を負わないように、分かってあげなければならない」と言われました。


以後、私は日本を巡回しながら、行く先々で本当に精誠を込めて、心情的にも負債を負うことのない私になろうと努力しました。そして、日本の食口たちも心情的にそれを感じて近く対してくれました。私は日本の食口たちの精誠と心情を蹂躙してはならならないという気持ちで祈りと精誠を込めました。私が日本の食口たち以上に精誠を込めてこそ、恵みを与えることができるのであって、精誠が足らなければ心情的に恵みを与えることができず、むしろ負債を負うことになると思いました。


1992年12月にお父様が呼ばれたので行ってみると、金元弼(キム・ウォンピル)先生も一緒におられました。お父様は、「巡回師制度がなかったが、これを復活させて再び回れるようにしなさい。120名の巡回師を立てて各地に派遣して、原理講義と純潔講義をするように教育しなさい」と言われました。私は誠実に日本全国を何度も巡回しました。そのため、ある時は日本の食口たちが、「日本に住んでいる私たちよりも、日本について姜会長がもっとたくさん知っているようです」と言うまでになりました。事実、日本の食口たちは、自分が住む地域しか知りませんが、私は日本全域をすべて巡回したのでそのように思われたのでしょう。


1994年2月4日には、日本の体制がリージョン体制に変わりました。そして韓国でそのリージョンのリーダーたちが選ばれることになりました。その時韓国全土から、リージョンのリーダーたちが集まり、くじを引きました。お父様は、私もどこか地域を担当しなければならならないと言われ、日本の東(ひがし)東京地域を担当しました。一番大きなリージョンであり、人も一番多く、責任も重い所でした。お父様は直接電話を下さり、激励して下さり、指示も下さいました。お父様はいつも電話で、「お前に任せられた責任を果たさなければならない」と言われました。あまりにも莫大な責任がある地域なので、苦労して4年余りを過ごしました。


その後にロシアに行くことになりました。日本で最後に、離任式の場で挨拶をすることになりました。私は率直に、「私が責任を果たせなくて物足りない思いが多い」と言いました。「今までお父様の御言葉をすべて守れず、流してしまったり、忘れたりしてしまいましたが、お父様はまだ我々を信じ、国家メシアという大きな使命を下さいました。私は本当はメシアという言葉だけ聞いてもびくっとします。メシアの資格がなく、その呼称をつけてほしくもありません。今まで私たちが責任を果たさなかった恥ずかしい姿でしたが、いまからはこれ以上、責任を他に押し付けずに必ず成しましょう。もし今回も責任を果たさなければ、穴を掘って入って一緒に死ぬとかしなければなりません」と言いました。


その離任の言葉を言った私も、聞いていたすべての人々が泣きました。神山会長も泣きながら、「どうしてこのように静かに話しながらも、みんな泣いてしまうのでしょうか」と言いました。後になってこの離任式の写真が出てきたのを見ると、すべて人の顔が涙で濡れていました。それほど日本にいるときに責任を果たさなかったことが呵責になっていたのでしょう。


それでも、今まで日本の食口たちが私を覚えてくれて、よくしてくれます。
私も日本の食口たちに会えば本当に嬉しいです。
後で、「韓国人は責任を果たせなければ、自発的に穴を掘って入ろうという考えを持っていますが、日本人は、穴を掘れと言われて掘るのであって、そう言われなければ穴も掘れません」と言ったので、一緒に笑ったことがあります。



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