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2017.6.7 文亨進二代王 「罪とは、赦されない犯罪」


2017年6月7日 韓国語礼拝『神様の王国の名誉』中より
■ 罪とは、赦されない犯罪 (日本語字幕 8分半)


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因果応報は神様の中でもっとも核心的な要素である。


【罪の定義】
  1.借り
  2.我々と神の間の怨恨(えんこん・원한)
  3.犯罪


★ フランソワ・トゥレティーニ ( Francois Turretin ) 1623年 –1687年
★ マルティン・ルター ( Martin Luther ) 1483年-1546年

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フランソワ・トゥレティーニ。1600年代の人でした。
マルティン・ルターのすぐ後でしょう?
その当時にキリストを信じる神学者ですが、その人が大変深い内容を話しました。


罪に対しての内容を説明しましたが、罪は、神様の前に借りである。神様に借りを負っている。罪は借り。


二番目は、罪は、神様と我々の間の怨恨(えんこん)。神様の前に罪を重ねたから、神様も我々を恨み、我々も神様を恨むのです。憎しみ。


どういうことかわかりますか。この関係で分離されたということ。それはお互いの怨恨。
私が神様の御言葉と愛を反対し無視したのが罪であり、また、神様側でも、「こいつを見てみろ。私がこいつに生命を与えたのに、こんなに無視をしているな」…こういうふうになってしまったのです。お互いの間の怨恨。


しかし、多くの基督教人(キリストきょうじん)たちがこれを理解できます。罪は借りである。
罪はお互いの怨恨である、神様との関係の中における。それは合っている。そのように信じます。


一番、重要な部分があります。偽りの基督教人たちはこの最後の部分を言いません。それは何か。罪は犯罪、犯罪。これは本当に重要な部分です。私たちが神様の前に重ねた罪は、犯罪、犯罪です。


なぜ?なぜ、これが重要なのか。犯罪が作られたときに、罰があります、罰が。犯罪があれば、公平な国では何が出てきますか。罰があります。そうじゃないですか?


罰が出てくるでしょう?犯罪に罰を与えなければどうなりますか?犯罪がどうなりますか?大きくなります。だから犯罪にはいつも罰が連結されています、罰が。


感情的な基督教人たち、ただ感じたままに生きたい基督教人は、これを忘れてしまいます。
人びとは。私たちが神様の前に犯した罪は、小さな罪から大きな罪まで罰が連結されています、罰が。この部分、罪について理解できなければ、神様がなぜ善なられる神様として、私たちに罰を下さらなければならないのか、わかりません。


なぜ?私たちが神様に借りを負ったなら、貸した人は借りた人を許すことができますか、できませんか。100%赦すことができるでしょう。「返すな」と言うだけでいいでしょう。やさしいことです。
だから、基督教神学では、「ああ、神様はどんな罪でもすべて赦すことができる。心のままに生きなさい」…こういうふうになってしまいます。文化相対主義基督教
神様は、どんな罪を犯しても赦すことができる。すべての罪はだいじょうぶ。…これはサタン教になってしまいます。


二番目、神様は被(こうむ)った人です。私たちの罪に対して神様が被られた人です。私たちが被ったのではなくて、神様が被られたのです。冒涜を受けられたのです。神様が被害者です。私たちが被害者じゃなくて。しかし、神様が冒涜を受けられた、被害者なら、その被害者なら、自分が冒涜を受けた内容について、消化し赦すこともできるでしょう。私が赦してあげようと。


しかし、最後が一番重要です。罪は犯罪になった時に、神様はなぜ易しく赦すことができないのか。皆さんは考えたことがないでしょう?


神様の法定の前に行って、神様は判事なんだけど、私が出て、「私たちを赦して下さい」と言った時に、神様が赦された時に、悪い判事になります。なぜ?法を守るべき人が法に逆らったということです。原理を守るべき神様が原理に逆らったことになります。非原理的な神様になります。理解できますか?だから、私たちの罪は犯罪だ言うことを理解することが余りにも重要です。
なぜなら、神様は私たちを赦すことができません。する必要はありません。されたら悪いです。事実、悪いです。


なぜ?罰を与えなかったから。そんな国で暮らしたいですか?そんな狂った判事のいる国。そうだったら正義がありません、正義。正義がないのです。


ここに完璧な人がいるの?だったら神様の前に莫大な犯罪があるということです、皆。そして、すべての犯罪には罰が付いているのです。そして、神様は善なる判事ならその罰を与えないといけない。これを赦せば、悪い判事、悪い国、悪い正義。そうでしょう?


だから真の愛は善と悪を分立することができる良い神様は、正義なる神様は罪に罰を与えないといけない。どういうことかわかるでしょう。理解しますか?
しかし、、その罰を受ける人がだれですか?キリストです。私たちが罰を受けなければならないのに、キリストが入ってきて、私がその罰金を払おう…という人なのです。わかりますか?理解できるでしょう?こういう途方もない人です。


無罪の人、罪の無い人。入ってきて、その人の前に行って、「私がすべての罰金を払います」死刑であるなら、「私が死刑を受けます」。こういう人です、キリストは。これを理解しないと。キリストはある途方もない愛で私たちを救援したのか分かることができます。


私たちの罪は犯罪であること。犯罪人たち!みんな犯罪人たち。監獄に行って、永遠の地獄に行かないといけない。行かないと行けない!永遠な苦痛を受けないといけない。みんな!


そこからどうやって抜け出たのですか?神様の恩恵、恩寵(おんちょう)、恩賜(おんし)。
私たちが良くやったから、良い行いをしたら(と言って赦しを)受けるべき者ではありません!


それは神様が偉大だから。神様の愛が偉大だから、キリストの愛が偉大だから、私たちが受けたのです。理解できますか?その愛が途方もない愛です。



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