シャボン玉のブログ

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姜賢実先生の自叙伝 ;6章 付録 心情の交流 18.李秀卿(イ・スギョン)会長への送別の辞

6章 付録 心情の交流
▲李秀卿(イ・スギョン)会長への送別の辞


李秀卿(イ・スギョン)会長の霊前に捧げます。


李会長の聖和の消息を真のお父様は霊界でお知りになり、真のお母様は地上で聞かれました。心をつらくされたと思われます。あれほど愛し大切にされた息子であられたからです。大きく祝福して下さるでしょう。


李会長。天国に向かって行かれる道、喜んで行って下さい。私は会長が去られたということが事実ではないようなので、心情からあふれる思いで「会長(ヘジャン)ニム」と呼んでみるのですが、返事がないのを見ると本当にあの国に移られたのですね。


いつもそのように親しく笑顔で答えて下さり、多くのことを与えようと努めてこられたその心根(こころね)とその姿を今日はこの霊前から重ねて感謝を捧げます。


天基3年天暦9月25日79歳を一期(いちご)に天国に向かわれるこの場には、愛する夫人、子女たち、兄弟たち、親戚、知人、多くの食口たちが美しい花の中で残念な気持ちで歓送しています。


1953年4月14日、済州島で言い表せなかった苦労について、私は李鳳雲(イ・ボンウン)長老の自叙伝を泣きながら読みました。この世にあれほどの苦労があるでしょうか!とても言い表すことができません。


李秀卿(イ・スギョン)会長は、李耀翰(イ・ヨハン)牧師の言葉を聞いて、ソウルの水晶洞(スジョンドン)に来られました。なぜなら、再臨主に会う為でした。来られたその日は雲がかかり雨が降る日でしたが、家族6人で訪ねて来られました。その時、李会長は若い19歳の独身でした。


その日、お父様が何かワカメの生臭いにおいだと言われ、「そうか、この長老の家が済州島でワカメを主食としてきたのでワカメのにおいがする」と言われました。ですから、どれほど困難な生活をされたのかを推測することができたのです。


その時、お父様は喜びの色が満面に満ちていました。本当に食口がいなかった時だったのに、六人の食口がいっぺんに現れたのですから…。


時々お父様が李長老に、「苦労ではないのか?この道を私と一緒に行くことができるのか?」と尋ねられもされました。そのたびに長老は信念に満ちた声で「行くどころか、行ってあまりあります」と答えました。


特にお父様は、李秀卿(イ・スギョン)会長を金元弼(キム・ウォンピル)先生の次に愛され、大学も喜んで送って下さいました。お父様は、「秀卿(スギョン)、あんただけは私の味方だね!天の側であり、この道を死にながらも行くだけでなく、死んだ後にも行かなければならない」と言われ、本当に信じられました。その絶対的な信仰にお父様も絶対的に李会長を信じられました。


李会長は、昔、済州島からソウルに来られる数日前に夢で黒いスカートに白いチョゴリを着た女性が見えたが何を意味するのか分かりませんでした。夢では、その女性は、長老教会から入ってきた姜長老の娘であり、家では反対するので、出て来たと教えられたということです。


その時、お父様の家には、李先生、玉(オク)お母さん、金元弼(キム・ウォンピル)先生、李耀翰(イ・ヨハン)牧師、鄭達玉(チョン・ダルオク)お姉さん、池承道(チ・スンド)お母さん、ソンスクさんが一緒に住んでいました。私も一緒に生活していました。李会長が私を見られて、「姜長老の娘ではないか」と聞かれたので、私は、「どうして知っておられるのか」と言ったら、神様が夢であらかじめすべて見せて下さったと言われました。


その時から、私は李長老の家庭と特別な因縁があることを信じてきました。今日このよう話をすることになって、気分がさわやかになり、さらに誇らしい思いになりました。


李長老の家は、済州島でも苦労をたくさんしましたが、釜山でも多くの苦労をしました。その時は避難時代だったので多くの人々が苦労しましたが、ひときわ李秀卿(イ・スギョン)会長の苦労は言葉では説明が難しいほどでした。


釜山に来られての生活は、割り箸を削って納品して暮らしを立てていました。それはお金を儲けることはできない事でした。それでも着実に掘っ立て小屋の一室で生活しておられ、ご飯はドラム缶を切って釜を乗せて箸を削っていた木でご飯を炊きました。煙がどれだけ出たのか、私はご飯を炊いている間、ずっと泣いていました。


李長老は煙を見て汽車が通るようだと言いながら、シュッシュッポッポと何回も繰り返して言い、賛美歌も歌いました。私はその信仰を見て本当に感激しました。普通の人なら愚痴をこぼしたり、神様を恨みもしたはずなのに、いつも感謝する心、ありがたい気持ちで満たされていました。私の心で、「神様、許して下さい」と多くの悔い改めをしました。私の目にはこの長老の家族みんなが道人のように見えました。


誰にでも温柔謙遜であられ、真(まこと)に神様の祝福家庭としての資格を備えた家庭でした。会長は19歳でお父様に会い、1954年からソウルで私たちと一緒に一つの家で生活しました。


その時、私たちは、ひどく貧しく過ごしていました。いつも後払いで買った米に金スンチョルさんが市場に行ったときに少しずつもぎ取ってくれたおかずを買いました。その時、劉孝敏(ユ・ヒョミン)氏が全国を回りながら撮ってきた風景写真を李秀卿(イ・スギョン)会長が絵の具で綺麗に色塗りをして道端で売っていました。


本来は道端で売ってはいけないようになっていました。警察官が監視し、またある時は写真をすべて没収されもしました。毎日のように李秀卿(イ・スギョン)会長は、道に写真を広げておいて行き交う人々の足を止めました。


そうして少しずつ儲けてきたお金でお父様のお食事と食口たちの生活費の為に使いました。雨が降る日は出かけてもそのまま帰って来きました。そうすると、夕食の準備はできませんでした。残念なことはお父様のお食事をどうするかでした。私は、神様に祈りました。すると、李得三(イ・ドゥクサム)さんが小麦粉を二表も持って来てくれました。それで数カ月暮らしました。


ある時は警察官に捕まって道具をすべて奪われて落胆した表情で家に帰ってきたこともありました。その時の李秀卿(イ・スギョン)会長の表情は、何か大きな罪を犯した人のように見えました。私たちの生活を、李会長ご自身が責任を負っていたと思っていたからです。


実際その時、金元弼(キム・ウォンピル)と李秀卿(イ・スギョン)会長が苦労しながら基盤を固めていなければ、私たちはもっと多くの苦労をしたはずです。


しかし、お父様がおられたので多くの奇跡もありました。金元弼(キム・ウォンピル)先生と李秀卿会長は、統一教の経済基盤を築くにおいて元祖となられた方です。


1954年、雨の降っていたある日、私は伝道がよくできなくて辛辣(しんらつ)な表情をしていました。そして、私は知っている賛美歌を何曲か歌いました。その賛美歌を聞いた李会長が、「どうしてその賛美歌がこんなに恵み深くさせるのだろうか?数時間説教を聞くことよりも恵み深い」と言った時、お父様が入って来られ、一緒に賛美歌を歌いながら、私たちの心霊の復興を起こして下さったこともあります。


そのようにひどく貧しく暮らしていたその当時に、コーヒーカップ一つなくて、アルミニュームの器にコーヒーを入れて分けて飲みながら、李会長は、「コーヒーの汁(しる)を私にもう少し下さい」と冗談を言われて、一緒に爆笑したりしました。


今、私たちのお父様が霊界に行かれたので、そこの雰囲気が大きく変わったであろうし、お母様が地上の中心に立っておられるので、お父様はさらに大きく霊界で号令されて役事されておられるでしょう。


李会長、霊界ですぐにお父様にお会いになるでしょう。どのくらい喜ばれるでしょうか?そして、先に行かれた真の父母様の直系子女様である孝進(ヒョジン)ニム、興進(フンジン)ニム、榮進(ヨンジン)ニム、惠進(ヘジン)ニムに会ってお喜び下さい。霊界では、李会長の歓迎パーティーに李鳳雲(イ・ボンウン)長老も参席したことと思います。


先に逝かれた私たちの玉(オク)お母さん、池承道(チ・スンド)お母さん、ギワンお母さんから地上で多くの愛を受けましたね。先に逝かれた兄弟たちと一つになって、地上のお母様を中心として、一日も早く真の父母様が理想とされた御旨が成就されることに協助役事して下さると信じ、送別の言葉に代えさせていただきます。



天基3年天暦9月27日(2012年11月8日)


姜賢實 拝


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