シャボン玉のブログ

2代王のみ言葉、韓国情報、韓国聖殿の近況などお知らせします。

●「真の神の日」要約版(前・後)2019.2.5

礼拝視聴用です。普通、礼拝で動画を見る前に、国歌斉唱や家庭盟誓を唱えて、御言葉として動画を見ますが、「真の神の日」の行事の中で、祈祷・家庭盟誓・国歌斉唱などがあるので、動画を見ながらそれらを行えます。


▼前半(11分)


<式順>
 ・開会
 ・入場
 ・聖燭点火式
 ・敬拝
 ・国歌斉唱
 ・家庭盟誓


▼後半(22分)


<式順>
 ・李相烈会長の報告祈祷
 ・ケーキカット
 ・聖餐
 ・二代王の新年の御言葉(朗読)
 ・青年会長による御言葉訓読
  …天聖経「蕩減路程を行く者の心の姿勢」
 ・花束贈呈
 ・億萬歳三唱
 ・退場


★「真の神の日」12分日本語要約ビデオ
     ※要約版(前・後)を合わせてさらに要約した縮小版です。
         (スライド写真の代わりにご覧下さい。)





「天聖経」(直訳)


※「訓読」の時間に引用された御言葉です。全部ではありません。元のビデオでは、訓読の場面で、画面の文字と音声が合ってない部分があったので、要約版ではその部分は字幕を付けてあります。


天聖経 第8巻 罪と蕩減復帰 
第3章 蕩減と復帰の公式
二 참아버님の歴史的蕩減路程
蕩減路程を行く者の心の姿勢


私が四十年前に、四十年後にはこういう時が来ると言いました。その時は小さいと言っても、本当に小さな存在でした。服がなくて、二重のズボンも大切に表地と裏地を別々に青く染めてはき、上は着る物がないので米軍の青い作業服を着て、靴は運動靴、その運動靴も日本人がくれたものでした。そのように三カ国の服を着て歩いたのです。そうして歩きながらも「これはみな蕩減復帰のためだ。蕩減復帰しようと、アメリカのぼろ、韓国のぼろ、日本のぼろを私が着て歩くのだ」と言ったものです。それはどれほど素晴らしいことでしょうか。


           *


私たちの教会は蕩減復帰の道を歩んできました。蕩減復帰をするために事情の多い道を経ながら、先生は今までこれくらい基盤を築きました。滅びることなく、サタンのわなにかかって釣られることなく残りました。この基盤は誰のために築いたのかか。私のために築いたのではなく、人類のために築いたものです。これを統一教のものとして残してはいけません。人類のためのものです。これから、統一教会はなくならなければなりません。一つの主権の中に超えていかなけなりません。それがすべての宗教が望むところです。


皆さんは偽物です。偽物、偽物なのです。本物になることが易しいと思いますか。溶鉱炉に何百回も出たり入ったりしなければならないということを知らなければなりません。蕩減復帰、心情圏の復帰のために自分の息子、娘を刑場に送る父親となるとき、涙なしにはできないのです。アブラハムもそうでした。天理の大道を切り開き、神様のために、神様を愛の圏の中に解放するためには、このまま座っていてはならないのです。今日このような位置を備えたのも、偶然にそうなったのではありません。血の涙の出るような、血の涙が凝り固まってたまるような、そのような過程を経て統一教会の基盤が築かれたのです。その基盤を知れば涙なしに座ることはできず、痛悔の念なしには座ることができないという事実を知らなければなりません。


           *


私は一生の間苦労してきましたが、私は豪華な高い位置で歴史を蕩減していこうというのではありません。私が享受することのできる福をあとに残しておいて、皆と苦労を共にし、先生が高く上がるそのような民族的な尊敬心も皆さんと同じ立場で、国家の解放とともに歓喜の一日を望むのが先生の希望だということを知らなければなりません。


           *


監獄に入る人はみな、監獄に入るときから絶望と落胆の思いをもちますが、ここに立っているこの人は、監獄生活のあとにやってくる結果はどんなものであろうか、ということに相当な関心をもちます。皆さんは蕩減復帰を学んだので分かると思います。この峠を越えれば何が起こるか、今受けている苦痛が問題ではなく、その苦痛のあとに来る新しい歴史的な一つのプレゼントが何であろうかということを、いつも考えていたことが今も記憶に新しいのです。


           *
私が今死ぬならあ、私のようにハナニムを愛し、私のように人類を愛する人がこの地にいるだろうかという心配が先立ちます。そのような意味で私が長生きしなければならないのです。先生は皆さんの中から、そんな人が早く出てくればどんなにいいかという目で、皆さんを見つめているということを知らなければなりません。


ハナニムがこのレバレンド・ムーンに祝福してくださるなら、ハナニムが私にそのような人を下さることが、一番の贈り物であり、祝福であるとみるのです。今まで不信され苦難を受けてこられたハナニムを、先生以上に愛し、先生以上に人類を解放してやる為に努力するという人がこの時間に現れるならば、きょうは栄光の日になるでしょう。
           *


救世主はいったい何をしに来るのでしょうか。政治をするために来るお方ではありません。こんにち、キリスト教で言うには、主が来ればすべて空中に上げられ、自分たちは連なって引き上げられ、地上の人々はみな……。違います。そうではありません。審判するというのですが、救世主は何、審判しに来られる方ではありません。その方は神様の息子、娘であると同時に、人類の父母として来られるのです。人類の父母として父母の心をもって来られるお方が、病気になって死にそうになって呻吟(苦しみうめいて)しているそんな息子、娘を見て「お前はあの地獄に行け」と突き放すことができるでしょうか。


堕落したこの世の父母でも、自分の子が死んでいく悲惨な姿を見ればのどを詰まらせ痛哭して、自分の生命を失うとしても、子を生かすためならどんなことでもしたいという気持ちが先立つのです。そういう者が父母であるのに、本然の父母の心情をもって来られるそんな救世主はどれほどでしょうか。審判というのは考えられないのです。そうじゃないの?


           *


さあ、先生とハナニムが会うとしたら、笑って会うでしょうか、痛哭して会うでしょうか。考えてみてください。私が思うには、昏睡状態に陥ると考えられます。涙を流すとしても体面があり、死ぬとしても体面があるからそうなのです。ハナニムの前で体面がありません。四十年の生涯に、誇るものは一つもありません。恥ずかしいばかりです。そのように思うのです。


今までの人類歴史は八十五万年と言われています。だいたい八十五万年と見るのです。その期間に宗教運動は未開なところから迫害を受けて出てきたのです。だったら、そんな役事をさせた方が誰でしょうか。神様です。神様ですが、僕の僕から段階的に分かれてくるのです。それでは僕の僕の中では、僕が主人となるのです。主人が僕を使うのではなく、僕が主人を使うようになるのです。


そうなるには、このような天の国の僕の主人にならなくては、サタン世界をすべて合わせた僕の迫害を受けて勝利しなければなりません。それゆえに死ぬ覚悟をしなければならないのです。それで死のうとする者は生きるという言葉が出てきたのです。


僕の僕から僕の位置に上がり、次に僕から養子の位置へと上がるにも必ず迫害があるのです。ここも同じです。七段階まで。神様までは八段階です。それではこの迫害を誰が受けるというのでしょうか。人は変わりますが神様は変わることがありません。


ですからこの世界の宗教の中には僕の僕になる宗教、僕の宗教、養子の宗教、庶子の宗教、息子の宗教、母の宗教、父の宗教、真の父母の宗教があるのです。一番最後には父母の宗教が出てくるのです。終わりの日には真の父母を中心とした真の父母の宗教が現れるのです。


※庶子(しょし):正妻(せいさい)でない女から生まれた子。


統一教会が出て宗教を統一すると言う事は、真の父母の内容をもった宗教の教理を通さなければそれが不可能なのです。

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