シャボン玉のブログ

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削除された姜先生の回顧録・第一章 その1 主イエスがおられる所、そこはどこでも天の国

先日4日に李相烈会長が帰国された時、短い挨拶をカカオにアップしてくださったのですが、その言葉を読んだ時、霊的に光がパァ~!と射してくるような感覚を覚えました。


天一国二代王が天一宮入宮を勝利的に天の前に奉献されたことで、
     
 荒野時代を終えて、天一国実体時代を開いてくださった。』


亨進様が毎朝5時から2時間の訓読会を新しい形で意欲的に放送してくださる中、姜賢実先生も席を共にして、しっかりした口調で全世界のクリスチャンたちに向って語ってくださっている姿に感動を覚えます。


亨進様は聖霊が凄まじい勢いで働いている!と言われました。

ご高齢にもかかわらず、お父様と代身者・相続者である二代王を証し、一人でも多くの人たちが繋がってほしいと積極的に精一杯に動いていらっしゃる姜先生を見て、今、皆さんに私が持っている姜先生の回顧録(韓国語の日本語訳)をご紹介したいと思いました。
このブログで紹介するのは、削除部分の多い日本語版ではありません。
韓国語版の日本語訳です。
特に日本語版では読めない「崔先吉女史の思い出」部分を紹介したいと思います

この本は成和出版社から出版されたのですが、韓国では絶版としてしまいました。
日本語版は、第二章の「崔先吉(チェ・ソンギル)女史に関連する部分」を削除して出版されています成和社では、おそらく、金錫柄(キムソッピョン)氏の指示で「第一のお母様・崔先吉氏の証」を削除したのだと思います。実は、金錫柄氏がソウル論峴洞(ノンヒョンドン)の姜先生の自宅に入って、姜先生が個人所有しておられた昔の統一教会の資料や写真を没収してしまいました。まるで家宅捜査のようだったそうです

現在の韓氏オモニの言動から見て、金錫柄氏が直々にそこまで動いたということは、もしかして、お母様の指示が背後にあったのかもしれません。


回顧録は、姜先生の生い立ちから始まります。かなりの長文なので、連載にしようと思います。韓国在住で昔読んだことのある方も懐かしく思い出されながら読んでみてください。連載途中に他の記事が出る場合もありますが、この回顧録連載は続けていこうと思います。


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私の証拠的生涯 (=主を証しする私の生涯)
韓半島に降臨された再臨主

姜賢實(カン・ヒョンシル)

第一章 成長と入教
  主イエスがおられる所、そこはどこでも天の国
  誠実な信仰の中で成長

高い山が、果てしない野原が、草木や宮闕(きゅうけつ)や
私の主イエスがおられる所なら、そこはどこでも天の国
ハレルヤ賛美しよう 私のすべての罪の赦しを受け
主イエスと同行するので、そこはどこでも天の国


私は1927年10月1日(天暦8月20日)慶尚北道(キョンサンブクド)榮州市(ヨンジュシ)榮州洞(ヨンジュドン)82番地で生まれました。故郷の榮州を思えば、青い山がまず初めに思い浮かびます。小白山(ソベクサン)のふもとに位置し、清い水と青い山があり、美しい自然が保たれた地方です。


また、榮州は学者の地でもあります。韓国最初の 賜額(しがく)書院である紹修(ソス)書院があり、忠孝を誇る学者たちが多く住んでいました。紹修(ソス)書院は、周世鵬(ジュセボン)が天賦の幸福を祭るために建てられた白雲洞(ペクウンドン)書院であったものを、後に李滉(イファン)が郡守として赴任しながら紹修書院として昇格された後、多くの学者や忠臣が輩出された所として有名です。だからなのか今も榮州には善良で剛直(ごうちょく)な人たちが多いようです。


故郷の榮州は昔から基督教の教勢が相当に強い地域です。幼いころ、教会で礼拝が持たれる時には、座る所がないほど人がいっぱいに満ちていた記憶が残っています。おそらく剛直な性格を持った人達が多いので、基督教信仰も熱い信仰をする人達が多かったのではないかと思います。慶尚北道(キョンサンプクド)には榮州と共に、大邱(テグ)と安東(アンドン)が熱心な信仰者が多かった地域です。


特に私が生まれて育った村は晉州姜氏(チンジュカンシ)の姓が多い村でしたが、ほとんどの人が教会に通い、村全体がクリスチャンと言っても過言でなかったのです。晋州姜氏(チンジュカンシ)の信仰はうわさになり、「榮州にある教会の重鎮たちはほとんどが晋州姜氏(チンジュカンシ)」という言葉があるほどでした。


※賜額(사액・しがく)書院:王が名前をつけて額を賜わり書籍·召使い·土地などを下賜した書院


私は父親である姜錫祉(カンソクチ)長老(チャンノ・ちょうろう)と母親の權桂月(クォンゲウォル)勧士(クォンサ)の七人兄弟の中の長女として生まれました。私の家庭は祖父が長老教会に入教した後から篤実(とくじつ)な基督教の信仰を守って来ていました。父母は一日も欠かさず早朝祈祷に通い、夕方になれば父を中心として家庭礼拝を捧げました。おかげで私は母胎にいたときから信仰生活を始め、いつも神様の御言葉の中で成長しました。家庭のすべての生活が神様を中心としてイエス様を正しく信じて従うために努力したのでした。


父は榮州(ヨンジュ)教会で40代で長老として任命を受けました。長老と任命されるには若い年でしたが、信仰が篤実で責任感が強くいろいろな人が推薦をして若くして長老になりました。


父親 姜錫祉(カンソクチ)長老              母親 權桂月(クォンゲウォル)勧士(クォンサ)



私の家は事業をしていたので生活水準は中流程度で窮乏(きゅうぼう)を感じるほどではありませんでした。母は教会の勧士(クォンサ)で静かな人でした。七人の兄弟姉妹を育てながら大声一つ出したこともなく、子供を世話しながら暮らしました。母は自分を前に出したことがなく、周囲の人たちから謙遜な人だとよく言われていました。


家庭で礼拝をするときになれば、父はいつも信実(しんじつ)な生き方を強調しました。祈祷するときや話しをするときには、「人は真実であるべき。真実に生きなければ神様が離れる」としきりに強調してくれました。父が、「真実はいつも真実そのまま現れるのである。神様は生きておられ私たちと共におられるから私たちはいつも真実に生きなければならない」と言われたことが今も思い出されます。


また、父が家庭礼拝を捧げるときだけでなく、いつも歌っていた賛美歌があります。「高い山が、果てしない野原が、草木や宮闕(きゅうけつ)や私の主イエスがおられる所なら、そこはどこでも天の国。ハレルヤ賛美しよう。私のすべての罪の赦しを受け、主イエスと同行するのでそこはどこでも天の国」と小声で歌った父の声は私の心に今も残っています。この賛美歌には、「神様と共にある者はいつも真実であるべき」と言われていた父の言葉と生き方が込められているように感じます。父はいつも私的な場にも礼拝時間にもそのように話し、そのように生きようと努力しただけでなくそのごとくに生きました。


それなので、教会の中でも多くの人達から、姜錫祉(カンソクチ)長老は真実であり御旨のままに生きる人として尊敬を受けました。自然に私も父を尊敬し父の信仰に従って育ちました。


父母のおかげで私は正しい信仰の道を行こうと努力することができました。父が信仰の根本を私の心に植えてくれたとするなら、母は私に信仰の習慣を育ててくれました。幼い頃から私は父といっしょに早朝祈祷に通いました。夜明けに母と教会で祈祷をして一日を始めることが習慣になりました。早朝祈祷を終えて家に帰って来る道で私は、母のように着実に無言で神様を信じ侍り生きなければならないと心に誓いました。


しかし、日帝時代に信実な信仰をすることは易しいことではなかったのです。日本が韓国に神社をいたるところに建て、強制的に参拝をさせたからです。特に1930年代後半からは基督教団にも圧力をかけ、一般信徒たちにも神社に参拝することを強要しました。真実な信仰をしていた私たちの家庭に大きな試練が始まるようになりました。


そうする中、ある日、父の友達である一人の牧師が榮州(ヨンジュ)を訪ねて来ました。その日、父はその牧師と長い時間話しをしました。どんな話をしたのかは知ることはできませんでしたが、天皇を神として侍り参拝することはありえないということで意見を合わせたようです。


結局、父は神社参拝を拒否し警察に引っ張られ収監されてしまいました。その以後、私の家は風飛雹散(ふうひひょうさん=四方に飛び散ること)になりました。警察が家宅捜索をし、父が平素読んでいた宗教に関する本をいくつかに分けて持って行きました。その後、三日も経たずして家に来て母を怒鳴りつけ家の中をひっくり返しもしたりして、私が学校に行けない日もありました。警察は私たち家族を人として扱わず、大きな罪を犯した罪人として扱い監視をしたので、自由に気を落ち着けて暮らすことができませんでした。さらには神社参拝をしない家の娘だと周囲から憎まれました。


それでも私は毎日夜明けに教会に出て父のために懇切に祈祷を捧げました。「神様を信じない人たちの心の中に現れてその間違いを叱ってやって下さい。神様が分かるようにして下さり、彼らが留置場に閉じ込められている人たちを苦しめないようにして下さい」と熱心に祈祷を捧げました。


収監されたときには健康であった父は、獄中であまりにも多くの拷問を受けて病気になり回復が難しくなりました。日本の警察は父が獄中で死ぬかもしれないと心配になり、やっと出獄させてくれました。しかし、すでに重い病気になった父は、終戦(1945年8月)を迎えることができないまま1944年1月3日に亡くなりました。


それで榮州教会では父について、「姜錫祉(カンソクチ)長老は日帝時代に殉教したようなもの」と評していました。拷問で直接殉教したのではありませんが、神社参拝を拒否し収監されてから病気にさせられて亡くなったのですから、姜氏一族から殉教者が一人出たという話になりました。


母は生きている間は変わりなく長老教会で篤実(とくじつ)な信仰生活をしました。いつも「亡くなった父と霊界に行って会ったとき、恥ずかしくないように、申し訳もしないようにしないといけない」という言葉をよく言っていました。1996年に父と母は霊肉祝福を受けました。


神学の道を歩む


終戦以後、私は釜山(プサン)に行って高麗高等聖経学校を経て高麗神学校に入学しました。高麗神学校は父の友達である韓(ハン)サンドン牧師が設立した学校です。韓牧師は日帝時代に神社参拝を拒否し獄中生活をした牧師たちと共に信仰の正道を行くため多くの努力をしました。長老教会の牧師は、父と親しい友達である韓牧師が釜山に神学校を建てたのだから私に入学するのがいいと推薦してくれました。そのとき私は信仰面でも学業面でも模範生だったので、積極的に神学校入学を勧められました。


当時私の心の中には、父が出獄した後、終戦を迎えられないまま父が亡くなったことが一つの宿題として残っていました。父が行った道を受け継ぎ、父が果たせなかった仕事を私が継承しなければという考えになりました。私の氏族に対する神様の御旨、父が亡くなって成せなかったことを私が成して差し上げなければという思いが心から離れなかったのです。


父が成すことができなかった神様の御旨を成すためには、内外的な準備が必要でした。高麗神学校は神社参拝を拒否した教会関係者たちが中心になり建てた学校だったので、父が抱(いだ)いていた御旨を内外ともに準備するためにもっとも適した学校でした。


それで、1950年、高麗神学校に入学しました。神学校に通う間、韓牧師が私を大変可愛がって下さいました。その愛と期待に答えるため、私も最善を尽くして勉強しました。そして信仰生活にも精誠を尽くしました。高麗神学校は保守的な学校で、一日60ページ以上義務的に聖書を読まなければならず、3時間以上祈祷をしなければなりません。神学校に通う間、いつでもどこでも神様に祈祷を熱心にしました。母はそのように祈祷する私を見ながら、「いつもそんなに伏して長い間祈祷をしたら、背中が曲る病気になるのじゃないか心配」と言うほどでした。


高麗神学校は大変厳格に安息日である日曜日を守りました。例えをあげれば、日曜日にはどんな物も買ってはいけません。電車やバスの切符も買ってはいけません。仕事をしてもだめで、外れたボタンを縫うのもだめで、10里以上遠い道を歩いてもだめです。学校からはそのようにあれもだめ、これもだめだという教育を受けたので、どんな事も良心の呵責になり何もすることができなくなりました。


当時、私は聖書を生命視しその御言葉に従って正しく生きようと歯を食いしばって生活をしていました。そうしながら心の中では、「再び来ると約束された主はいつ来られるのだろうか?」という思いが火のように起こりました。


私はイエス様を本当に愛していたので、イエス様も私を必然的に愛して下さると信じました。その信仰は本当に絶対的でした。イエス様が来られる時が近づいたと考えたので、より心が懇切になりました。西暦2000年になる前に来られると聞いていたので、今、来られる時になったという思いになりました。月の明るい夜には縁側に座って月を見つめながら、「主よ、私は本当にあなたを愛します。私が愛するのと同じようにイエス様も私を愛されるでしょう?来られたら誰よりも一番最初に私に会って下さらないといけません。私に一番最初に会って下さると信じています」と祈祷しました。


そして神学校の授業が終われば路傍伝道をしました。普通の信者のようにある形式とかやり方に縛られて伝道するのではなく、私の血と肉と骨の中から湧き出る心情で叫びました。イエス様の事情と心情を体恤(たいじゅつ)した私は、「私が二千年前に生きておられたイエス様に慰労と所望(しょもう)の対象になるはずだから…」と、胸の中から痛哭(つうこく)の思いが湧き上がりました。「イエス様、私は不足ですが、私にはイエス様の切ない血が流れています。この地上に人類を救おうとする御旨が生きています」と叫びました。


当時は、主に会うためにいつも内的にも外的にも準備をしなければならないという考えが切実でした。イエス様が新郎として来られると言われたので、新婦の装いをしなければならない、内的にも外的にもイエス様を迎える準備をしながら暮らさなければならないという思いが心いっぱいに満ちていました。


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