シャボン玉のブログ

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削除された姜先生の回顧録(第2部)その13 神とサタンが対決しているパゴタ公園で原理を伝える

2部最後となります。これとちょうど合う貴重なyoutubeがあったので、ご覧ください。
掲載する文を読んでくださっています。日本語翻訳が終わって製本の直前に、翻訳文原稿を弟子に読ませて最終確認をされる姜賢實先生です。はじめは交代で読むということで、姜先生とお弟子さん交代で読み始めましたが、姜先生が大変なのでお弟子さん一人で丸一日掛けて本一冊分を読まれたそうです。本当に汗と努力の結晶ですね。


この時点では、全訳された日本語版が出るものと思っておられたそうです。しかし、数ヶ月後に出版された日本語版は、題名が変わり、さらに成和出版社は姜先生に無断で、当時の真の母であった崔先吉女史に関連する部分を削除したそうです。
そのことに姜先生は失望されました。


「パゴダ公園で原理を伝える」姜賢實先生回顧録


パゴダ公園は、先日ご紹介した33人独立宣言書、3.1運動と非常に縁がある公園です。
民族の熱い思いが込められ、神とサタンが対決しているパゴダ公園。
さらに姜先生が精誠を込められたパゴダ公園です。


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私の証拠的生涯(=主を証しする私の生涯)
韓半島に降臨された再臨主

 姜賢實(カン・ヒョンシル)

第2部  ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
 ● 御言葉を宣布する生活
  
パゴダ公園で原理を伝える


翌年の1959年7月から7年の間にタプコル公園で路傍伝道をしました。今のタプコル公園は、その時はパゴダ公園という名前でした。お父様は私に、「パゴダ公園で正式に講義をしなさい」と言われました。それで、伝道を始めましたが面白いことが多かったです。


お父様は多くの期待を持たれて、毎日、私の報告を聞かれました。毎日どんなことがあったのか興味を持たれて私を探されました。食事をされながらも、「姜賢實はどこにいるの?」と探される時もありました。食事を召し上がりながらさじをご飯の上に浮かせたまま、私の報告が終わるまで口を開けたままじっと聞くこともされました。「お食事を食べながら聞かれればいいのに…」と思ったこともあるほど、大変な関心を持たれました。


最初に講義を始めた時は真夏でした。当時タプコル公園は、全国の人々が訪ねて来ていた有名な所なので、講義を開始すると、ある時は千人を超える人波が集まりもしました。私は、神様がこの時代に向かって言おうとされる御言葉を代身で伝えるという心情で講義をしました。全国各地から来た人々の前で講義をしたら、地方巡回で回った時の私だと分かって、来て挨拶をする人もいました。



路上に黒板をかけておいて、まず題目を書きます。例えば、「堕落論」と書くと、男性たちが、「あの女、字を本当に綺麗に書くなあ」という言葉を言います。私は実際には字が下手です。字が下手なのにそう言われると不思議なので、お父様に報告を差し上げたことがあります。すると、お父様が笑われて、「姜賢實は、狂った人が踊りを踊るように字を書くのに、何、それで字が上手いだと?それは自分の心でそう言うんじゃないんだね」と言われました。


伝道のためにタプコル公園の近くに講義室を一つ借りておいて、毎日午前中に公園内での講義を一回して、その講義を聞いた人々を集めて、講義室に連れて行きました。「講義をもっと深く聞きたい方は、私について来なさい」と言ったら、四、五十人の人たちがついてきました。成り行きを知らない人が見たら、背の低い女性の後について人々が団体で歩いていくことを不思議に思ったでしょう。講義室では、毎日昼12時に講義をして、午後に再びタプコル公園で講義をした後、5時頃に講義をもう一度しました。


人々が集まって講義を聞けば、得意になって講義をしましたが、私の心ではないようでした。後では黒板に手書きではよく見えないので、掛け図を掛けておいて講義をしたりしました。その時、伝道された人が多かったです。


もちろん、反対も多かったです。まず警察から許可を受けてする講義ではないので、初期には警察に捕まっていかれることもありました。ある日、鍾路警察署に連行され、一晩警察署にいてから出てきたこともあります。警察が内容を聞いてみた後には、幸いなことに黙認してくれました。


たまにお酒を飲んで乱暴をふるう人もいました。黒板を倒して足で踏む人から黒板の字消しを投げる人までいて、騒ぎを起こされたりもしました。さらにゴムの履物で私の頬を叩く人までいました。そんな時、一緒にいた勧士たちと心を一つにして闘いました。


天気も問題でした。雨の日はそれでもましですが、雪の降る日は寒く雪が積もっていて人がほとんどいませんでした。そんなある日、「お父様、今日は雪が降るので出て行かずに休まなければなりません」と言いました。


「何でそんなことを言うのか?」
「雪がたくさん降って人がいません。雪が降る日は人が一人もいません」
「人がいなくても講義をしなければならない」
「誰もいないのに一人で講義をしていると、人々は私を狂った者だと思うでしょう」
「それでもしないと!今、パゴダ公園は、神様とサタンが決戦をする所だ。だから、本当に人がいなければ、祈祷でもして帰って来ないと、そこをそのまま空けておいてはいけない。昔のイスラエルの民がアマレクと戦った時、モーセが手を上げるとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝ったんじゃないの?
それと同じように韓国の中心はソウルであり、ソウルの中心部は鐘路(チョンノ)であり、その中心はパゴダ公園であるだから、パゴダ公園で今、神とサタンが対決している
そうなのにパゴダ公園で一日でも御言葉を伝えなければ、サタンがどれほど遊び騒いで喜ぶだろうか?だから、人がいなくても、そこで祈祷して講義するその心情を持ってパゴダ公園をひと回りしてでも来い」と言われました。


ある日は声がかれて言葉が出ませんでした。マイクもなしに屋外で御言葉を伝えるために、いつも喉がかれていました。それでも人が多く集まれば集まるほど、より得意になって講義をするようになりました。そうすれば喉がもっとかれてきて声がまったく出ません。


それでお父様に「先生、ご覧のように喉がかすれて声が出ません。三日間だけ休ませてください」と懇願しました。するとお父様は、「言葉が出なければ八角亭(=公園の真ん中にある休み場)の上に上がって、手振り、足振り、身振りでもして立っていろ」と言われました。「もし私がパゴダ公園の八角亭の上に立ってそうすれば、みんなが私が狂ったと言うでしょう」と言いました。


そう言うと、「姜賢實が本当に彼らを御言葉で生かしてあげないといけないという心、そのように命を救うという切実な心に狂っていれば、手振り足振り身振りを見て食口になることがある。今、たとえ食口となる者がいないとしても、蒔(ま)いておいた御言葉は、宇宙空間に残り、いつかは誰かに実を結ぶようになる」と言われました。


だから365日、一日も休まずにタプコル公園に行きました。そして鄭錫温(ジョン・ソゴン)おばあさんと金喜玉(キム・フィオク)勧士と一緒に精誠をたくさん込めました。そのような内容を知らない人たちは、ただ私がタプコル公園で講義を長くしたことだけを知っていますが、そのような精誠が土台になっています。毎日朝早くほうきで公園を掃(は)くことから始めました。神様とサタンの戦いで神様が勝利されることができるように祈祷と精誠を込めました。


特にタプコル公園で講義している間は私的な事をすることができませんでした。講義をする前に、必要なものを買おうとどこかに立ち寄っていくと、その日は講義が失敗に終わりました。誰かにちょっと会いに行っても言葉が出ませんでした。いつもしていた講義も考えが浮かばず頭が真っ暗になったりしました。人々もよく集まらず、講義室に行く人も特にいませんでした。精誠をどれほど込めて黒板の前に立つかによって、講義がよくでき反応も変わりました。


私がどんな思いを持っているかが、あまりにも敏感に現れたので、神様の摂理が機械よりも精密であることを感じました。その後、私は公的な人生を生きる人は、何を優先するべきかをよく選択するべきだと何度も話していました。お父様はその時、「講義をすることが問題ではない。講義をする心の姿勢が間違っている場合、神は受けることができず、サタンが受けるようになる。それを注意しなければならない」と再三強調されました。


私だけでなく、講義室で夕方の講義をしていた講師たちがたくさんいました。みんな熱い誠を尽くして講義をしたので、講義が終わったら疲れていました。ある日、講義を終えて帰ってくる電車の中である講師が、「姜先生、今日は寒くてお腹がすくし疲れますね」と言いました。体も弱い人だったので、そのような話をしたので、私の心が余りにも痛くて、お父様にそのことを話して差し上げたこともあります。


お父様は報告を聞いてすぐに、「そうなの?体が病気になったらだめだ!」と言われながら金一封を下さり、「これを持って行って明日あげなさい」と言われました。それで翌日、お父様が漢方薬を作って飲みなさいと言われましたと、そのお金を渡してあげたこともあります。


タプコル公園で講義していた7年の間、伝道活動と復興団活動など多くの活動がありましたが、私はタプコル公園の講義だけ7年間休まずにしました。私はお父様がいつも一つの命でも救って、天の側に立てようと努力されていることを感じました。人を探し求め、命を生かして救う為にすべてを捨てて全力投球して出て行かれることを切実に感じました。


講義の途中で時間が少しできれば統和堂に行って祈りを捧げました。統和堂とは金寛成(キム・グァンソン)長老の薬局でしたが、鍾路2街(チョンノイ-ガ)に位置しており、タプコル公園から近かったです。そこにお父様の祈祷室が準備されていて、そこで講義の準備をし祈祷を捧げました。


ある日、祈祷中に、「昔、ペテロに与えた倍の恩賜(おんし)をあなたにやろう」という大きな声が聞こえました。しかし、私はそのような恩賜を受けるに限りなく不足している者でした。だから、「違います。私たちの教会には私よりも立派な人がたくさんいます。彼らにそのような恩賜をあげて下さい」と言いました。すると、三度そのような声が聞こえました。私は続けて、「できません。私はそれを受ける資格のない者です」と答えました。


夜、お父様に報告を差し上げたらとても怒られました。「ペテロは一日に三千人を悔い改めさせて救ったが、その二倍なら六千人を悔い改めさせて救うことができる恩賜だ。そのような恩賜を与えるというのに馬鹿のように受けないと言ったのか?その与えられた恩賜に逆らって、どうするのか?」と言われながら叱られました。私は資格もなく、そのような恩賜を受ける立場でもなかったのでできないと言ったのですが、お父様のお話を聞いて私が間違っていたことを反省したこともあります。


1966年には公園講義を終え、慶尚南道(キョンサンナムド)に下って行き、勝共講義を熱心にしました。釜山(プサン)では、主に大学や高校で精誠を尽くして勝共講義をして表彰状をもらいました。馬山(マサン)でも勝共講義をした功労で表彰状を二度もらいました。面と村を回りながら勝共講演をし、学校の先生たちにも教育しました。


そして、1967年に馬山(マサン)地域長として2年間活動しました。馬山にいるときに事業的な面でも大きな功績を立てて表彰を受けもして、1969年には部屋が二つある家を得て釜山鎮(プサンジン)教会を開拓しました。


1971年には全国特別巡回師の任命を受けて、京畿道(キョンギド)を中心に巡回しました。京畿道地域は広いので、全体を回ろうとすれば一カ月かかりました。一カ所に一日ずつ行って一泊して信仰指導をして回ると時間がいっぺんに過ぎました。行く所ごとに活動していた婦人たちを激励し相談することが主な私の仕事でした。
 
(第2部終わり)



続けて訪問してくださってありがとうございました。^^
貴重な姜先生の回顧録なので、続けて掲載していきたいと思います。




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