聖書や父母様のみ言葉は参考資料に過ぎない
韓国サイトのタマレにアップされていたものです。
出典は顕進様サイドのパイオニア・カフェです。
いつ頃からか、タマレにアップされる記事のほとんどがパイオニアカフェからのものになってきました。
そのうち、家庭連合ブログ村も顕進様ブログで埋められるかもしれませんよ~~。
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2016年 6月12日(日)
http://damalhae3.blogspot.kr/2016/06/blog-post_52.html
성서나 부모님 말씀이나.........길이요 진리요 생명이 아니고 참고자료일 뿐이다
聖書や父母様のみ言葉は、、道であり真理であり生命ではなく、参考資料であるに過ぎない。
http://cafe.daum.net/W-CARPKorea/cSkJ/29341 2016.06.10. 21:06
しかし、私が生きていくうえで参考資料になるだけだ。
私たちは聖書に対する態度について耳にタコができるくらいに聞いたものだ。
聖書は聖徒たちをメシアに導く教科書として杖のような道具の役割をするだけだ。
聖書のみ言葉は大切で貴重なものではあるが、
そのみ言葉は結局、ある目的を果たすために必要な道具に過ぎない。
では、父母様のみ言葉に対する態度と姿勢はどうあるべきか?
聖書のようにみ言葉というものは、そのみ言葉を参考にして人間が完成の道を行くことができるように導いてくれる役割をすることが本来の役割であろう。
聖書と同様にある目的のために必要な道具に過ぎないということだ。
聖書や父母様のみ言葉のその存在目的は、結局は神様の心情を所有して
神様のみ旨を理解するために必要なのではないか?
聖書やお父様のみ言葉でなくとも、神様のみ旨と心情を理解すれば、
そのような人にはこれ以上、聖書やみ言葉は必要がなくなるのだ。
その時からは自ら感じて目覚めていけば良いのである。
それゆえ、聖書やみ言葉というものは、ある段階まで必要なものであって、
その段階以上になれば、聖書やみ言葉はもう必要な理由がないのではないか?
聖書やみ言葉は教科書や参考書のような性格をもっているのだ。
したがって、教科書や参考書を通して目的が成されたならば、
もうこれ以上、教科書は、参考書は、必要がないのである。
同様にある段階以上の成長をすれば、
聖書やみ言葉は必要ではなくならなければならない。
成人になった後にもずっと父母様の保護を受けなければならないとか、
教えを受けてするならば、その人は問題がある人であり、その父母も問題がある父母だ。
まだ成人でないならば、父母の教えや保護を受けるのは当然だが、
成人になったならば、父母の保護や教えがずっと続いていてはいけないのである。
お父様は数百巻のみ言葉をくださったが、
その目的は結局、人間に神様を分からせようとする目的だ。
み言葉を数十年読んだなら、神様を百回は知らなくてはならないだろう。
しかし、今まで読んだにもかかわらず、神様が分からなければ、
その人は死ぬまで聖書とみ言葉を読んでも神様を理解できない人である。
今まで読んだけれども分からなければ、今後さらに読んだとしても理解できるわけがないからだ。
学校で勉強ができない生徒は参考書を数十回読んでも100点をとれない。
そのような生徒が100回読んだとしても100点をとれはしないだろう。
数十回読んでもダメなら100回読んでもダメなのである。
み言葉を数十年読んできたので、神様について精通しなければならないのに、
神様に対して精通したのか?
自ら尋ねてみて、そうでなければ、今後死ぬまでみ言葉を手にしても
神様を理解できないだろう。
今までわからなかったが、今後知る機会はほとんどないとみなければならないだろう。
み言葉に命を賭ける人の特徴は、勉強もきちんとできない生徒が参考書だけを貴重に思い、大切に扱うのと違わないのである。
自動車がいくら高くても自動車の目的は人を乗せるためのものである。
その目的を忘れ去った瞬間、高い自動車を所有した人は自動車の奴隷に転落する。
貴重な高い自動車なので、大切に扱わなければならないからだ。
いくら高くて豪華な住宅であったとしても、住宅の目的は安楽な休息場を提供することだ。同様に本来の目的を喪失した瞬間、その家を所有した人は、家の奴隷に転落してしまうのだ。
み言葉もまた、違いはしない。
み言葉の存在目的は私が人間らしく生きていくのに参考書の役割をするものだ。
その目的を忘れ去ってみ言葉自体を貴重に思い始めれば、そのみ言葉の奴隷になり、
人生を抵当に押さえられて生きるようになるだろう。
み言葉の貴重さを強調する者たち。。
勉強もできないくせに参考書だけ大切にする、そのような生徒それ以上でもそれ以下でもない。そして、み言葉の本来の目的を隠して、み言葉を大切にして、その後ろに隠れて自分の有益を求める者たちだ。
装飾用自動車、装飾用住宅、装飾用衣服、装飾用生活道具等....
このようなものは本来の目的と関係ないものだ。
懸命な人であるならば、このようなことに関心を持たないだろう。
匿名ルームで取り上げられるみ言葉の内容はみ言葉の本質と関係ない内容である。
したがって関心をもつ必要がないものだ。
参考書が数千巻あっても何の意味があろうか?
いくら読んでも成績が上がらないのに。
み言葉が数百巻あろうと何の意味があろうか?
人格と霊性と知性を兼ね備えた人間になれないのに、、
み言葉に対してそれなりに一所懸命説明をするというが、無駄な言葉遊びに過ぎない。
何故、言葉遊びなのか?
文章の内容を見れば、その人自身が人格と霊性と知性を兼ね備えた人間になっていないからだ。み言葉をそれだけ勉強したのなら、完成した人間にはならなくとも、
似る程度にはならなくてはいけないのでははないか?
いわゆる、口だけではないか?
み言葉を軽く見ているのではない。
しかし、命のように考える必要もないのである。
・・・・・・以上・・・・・・・・・・・・・・
<感想>
パイオニア・カフェには顕進様サイドでない方も入っているそうです。
なので、この筆者が顕進様サイドではない方かもしれないし、
もし、顕進様サイドの人のものだとしても、一部の、ある一人の考えであり、
統一した見解ではないでしょう。(たぶん、そう信じたいです。)
ただ、傾向として、顕進様サイドの方々の共通する考えが少なからず現れているように思えました。
名前はあげれませんが、ある方の情報では、顕進様が去られるときに
『お父様をとるのか、私をとるのか!』と問われたと聞きました。
お父様がなさったこと、お父様がおっしゃられたとおり、それにそのまま従うだけが孝行ではなく、言われなくとも、反発になったとしても、お父様の真の願いを悟り、
神様の願いを果たそうと歩んでいく姿こそが、真の孝行息子、成人した大人の姿だと主張したいように思えました。
亨進様は世界会長の役職にあっても、お父様の命令が一番と思い、全て投げ捨てて、お父様と行動を共にされました。幼子のような絶対従順の思いでそうされました。
でも、もし顕進様だったら、責任感のお強い方がその位置では、もう子供じゃないんだからと、とてもじゃないけどと、お父様と一緒に釣りやあちこちお供して連れ立ってはいけなかったのではないでしょうか。
もちろんご一緒したい気持ちは山々だけど、親の願いを悟って先がけて行く者となり、勝利して栄光をお捧げしたかったことでしょう。
亨進様は主の御心のままにと委ねられ、お父様をしっかりと掴みながら行かれましたが、顕進様はご自分の力で勝利を勝ち取ろうとされたのだと思います。
さて、亨進様は幼稚だったのでしょうか?
亨進様やヨナ様の証を伺うと、その間に多くのかけがえのないものを相続させていただけた期間であったとのことでした。
亨進様が何故、顕進様の役職を解任されてしまったのか、そこが謎でしたが、
お父様は、亨進様のことを霊的に敏感だと言われたので、何か感じた世界があったのでしょうか? ふとそんなことが頭をよぎりました。
<参照>