シャボン玉のブログ

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削除された姜先生の回顧録 第二章 その6 迫害の連続

私の証拠的生涯(=主を証しする私の生涯)
韓半島に降臨された再臨主

 姜賢實(カン・ヒョンシル)

第二章  ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
 ● 起きて叫ばん
  迫害の連続 

1954年2月9日、陰暦の1月6日、お父様の生辰(せいしん=ご聖誕)を大邱(テグ)で過ごしました。大邱の食口たちが集まって、お父様の生辰の宴(うたげ)を催すのですが、劉孝元(ユ・ヒョウォン)、劉孝敏(ユ・ヒョヨン)、劉孝永(ユ・ヒョヨン)、李昌煥(イ・チャンファン)氏などが来ました。その時、私たちは大鳳洞(デボンドン)に住んでいました。

集まって話をしておられる最中に、家の主人のおばさんが私を呼びました。「外にお客さんが来ています」と言うので、私が見ると一人の男性が立っていました。顔を見たのですが知らない人でした。

「どなたですか?」
「私は文鮮明先生の友人です。面会をちょっとさせてください」と言いました。
面識のない人なので、どうしたらいいか迷ったのですが、お父様のお名前を言いながら友達と言うので無視することができませんでした。それでお父様に、「ある方が友人と言って、外に来ています」と報告を差し上げました。

お父様は、「そうか?」と言われ、立って外に出られました。部屋の中に人がいっぱいいたので、お父様が出て行って誰なのかを見られた方が良さそうな状況でした。

ところが、お父様が出られるやいなやその人は、お父様を殴り始めました。お父様の顔を見てすぐに腰ひもを手でぎゅっと掴み、揺らしながら殴るのでした。私たちが横で止めようとしてもどうしようもありませんでした。道でそんな事が起きたので、井戸端で洗濯をして水を汲んでいた奥さんたちがみな見つめました。「何のけんかが起こったのか?」という顔で見つめるので、全く困った状況でした。

一瞬に起こった事なので、食口たちが出てきてやめさせようとしたのですが、既にお父はたくさん殴られて、目も当てられない姿になりました。本当はお父様が力を使われればその人にやられるような方ではありません。ところが、お父様は一度も抵抗をせずに黙々と殴られていました。振り回されれば振り回されるままに、打たれれば打たれるままに、そのまま打たれて揺れました。

食口たちがやっとその人をなだめたところ、お父様はただ何の言葉も言われず、部屋に入って行かれました。部屋に入って行かれるその後ろ姿がどれだけ私の胸を痛くしたか分かりません。生辰(せいしん)に、すべての食口たちが集まった時、そのような事が起きたので、まるですべてのことが私が責任を果たせなくて起こったようで、ただただ恐れ多いのみでした。

いつかその話を私がある人にしたところ、その人が、「力がなくて打たれたのではないでしょう。何の言葉も言われず抵抗もされず、その侮辱に耐えられたお父様の心情がどれほど苦しく、どれほど気がふさがったか考えれば涙が出ます」と言ったことを聞いたことがあります。

後で分かってみれば、その打った人はある食口のお兄さんでした。家族の反対が激しい食口でしたが、その食口がお父様に会いに行くと言って家を出て行ったと言いました。それで怒ったお兄さんがお父様を探しに来て乱暴をふるったのでした。実際にはその妹はその場にいもしませんでした。その事実を確認したそのお兄さんという人は謝りましたが、すでにお父様の生辰の宴(うたげ)はできる状況ではありませんでした。

当時はそのようなことが多くありました。食口の家族がやってきてお父様に暴力を行使したり、罵倒したりする場合が多かったのでした。 

そうであったので、大邱にいる間、あれやこれやの事件のために引っ越しをよくしました。ある時は、月に三回も引っ越しをしました。いつもこちらに追われあちらに追われの、追いまくられる立場でした。迫害も激しく、教会は頻繁に引越しをするので、大邱の食口たちが極度に​​過敏になっていました。ある日は一日に二度も引越しをしました。午前中に荷物を運んで礼拝をする姿を見て、午後には家の主人が礼拝をしてはいけないと言うので、新たな家を求めて引っ越したこともあります。

後は、食口たちに知らせずに静かに引っ越しをしたりもしました。しかし、食口たちが何とか調べて探して来ました。引越しをした翌日の朝にある勧士(クォンサ)が訪れて来たこともあります。びっくりして、「知らせもしないのにどうやって分かりましたか」と尋ねたところ、「神様がすべて教えて下さいました」と答えるのです。

その勧士は教会が引っ越したことを知って、徹夜祈祷をしたと言います。一晩中、「神様。どこに引っ越ししたのか教えて下さい」と懇切に祈祷をしたというのです。朝になると、「私が教えてあげよう!」という神様の声が聞こえてきました。「家を出なさい!」勧士は、神様の声に従い家を出ました。その声が導くままに歩きました。すると、ある家の前で足が自然に止まりました。「この家に入りなさい!」と教えてくれて訪ねて来たのです。 

ある日の出来事です。引っ越しをした後、食口たちにおいおい知らせなければと思っていると、鄭泳秀(チョン・ヨンス)という人から電話が来ました。その人は、姜執事(カンチプサ)の夫で漢方薬の薬局をしていました。最初は、姜執事が私たちの教会に通う時ひどく反対をしたのですが、だんだん御言葉を聞いて一緒に教会に来始めて間もなかったのでした。

電話で、「引越しはどこにされましたか?」と聞かれたので、「お宅の近くに引っ越しています」と言って住所を教えてあげました。すると「ああ、本当に私たちの家から近いところですね。夕方に一度まいります」と言いました。

その日の夕方に食事をしていたところ、家の主人になるおばさんが来て、誰かが外で私を探していると言いました。「誰がこの時間に私を訪ねて来たのか?」と、外に出てみるとお父様がタクシーの中で座っておられました。任執事(イムチプサ)もお父様と一緒にタクシーの中に乗っていました。お父様は私を見てすぐに、タクシーに乗れと言われました。家にいた人々が気になって、「ちょっと家に入って、先生といっしょに出ると話をしてきます」と言いました。しかし、お父様はお急ぎなのか、「その人たちを心配しないで早く行こう!」と催促されました。結局、どこに行くという話もしないで、夕食を食べ残したままタクシーに乗りました。

到着した所は、大邱駅の近くのある旅館でした。お父様は任執事(イムチプサ)と私に、「復帰の道は難しく険しい道だ。この世を神の国に復帰する責任が私たちにある。したがって、ここには人間が想像できないこともあり、理解できないことも多くあるので協助してほしい」と言われました。また、「我々は御旨の中で因縁が結ばれ、また、御旨を立てる為に行く体であるから、命を差し出して戦って行かなければならない。死のうとする者は、生きるのであり、生きようとする者は死ぬので、死も感謝の気持ちで受けるという心情を持って進んでいこう!」と切実に願われました。

そして、お父様と別れる時は、「私が来たと言えば、また問題が生じるようになるから、できるだけ私が来たとは食口たちに話さないように」と指示されました。任執事(イムチプサ)と私は11時頃になって家に来ました。ところが、道で李耀翰(イ・ヨハン)牧師に会いました。

李牧師は大変怒った顔で、「どこかに行くならどこに行くと言わないと。なぜ何も言わないで出て行きましたか?家に帰ってみなさい。大騒動です」と私を責めました。私は申し訳ない気持ちで、顔を上げることができず何度も謝りました。李牧師は怒って、「家に早く帰ってみなさい」とだけ言うのでした。それから、「こんな遅くにどこに行くのですか?」と聞くと、「友達の家に行きます」とだけ言って李牧師はそのまま行ってしまいました。「とても怒っているようだ」と思いながら、すれ違う李牧師の顔を見て、私はびっくりしました。その顔には青いあざがあり、ひたいには誰かに殴られたのか、こぶができていたからです。

「本当に家に何か大変なことが起こったようだ」という思いで急いで家に行くと、修羅場になっていました。一部始終を聞いてみると、私が原因で起こったことでした。私が夕食を食べ終えずに誰かが訪ねて来たと言って戻って来なかったので、食口たちは心配になりました。心配の末、「もしかして大邱南部警察署から刑事が来て捕まったのではないか?」という結論に至りました。

姜賢實伝道師が捕まったので、この家にも刑事が来るという思いになり、いったん荷物を鄭(ジョン)執事の家に移そうという皆の意見になったと言うことでした。あたふたと荷物を運んでいるところに、よりによって鄭泳秀(チョン・ヨンス)さんが家に来ました。その人は引っ越ししているのを見て、「私が家の場所を知ったから、引越しをするのではないか?はっきりと夕方に訪れると言ったのに、このように泥棒のように引越しをするのはなぜか?かつては教会に反対していた者だとして、もしかしたら私を信じることができずに引越しをするのか?私がまだ教会に反対し、妨害すると考えているのか?」と誤解をしてしまいました。

そんな思いになって腹が立って引っ越しで荷物を運んでいた李牧師の胸ぐらをつかんで、「どこに引越しをするのか?」と言いながら殴り始めたのです。横から姜執事(カンチプサ)がとめようとしましたが無駄でした。李牧師がいったんこの場を離れようという思いで、隙を見つけた瞬間走って逃げました。そのような行動にさらに怒ったチョン長老は、「泥棒を捕まえろ!」と声をあげました。

その声を聞いて、近くにいた警察官が来ました。事が大きくなったので、姜執事が機転を利かせて警察官に、「夫婦喧嘩でこのようになったので介入しないでください。申し訳ありません」と言い、わけを話したと言うことでした。幸いなことに警察官には帰ってもらいましたが、李牧師には青あざができ、荷物はあちこちに壊れて散らばり、家が修羅場になってしまいました。

玉世賢(オク・セヒョン)お母さんと池承道お母さんは驚いて他の食口の家に行って泊まりました。次の日の朝、二人は家に帰ってきて私を責め始めました。

「どこかに行くなら行くと話をして行かなくては....昨日は李牧師が殺されるかと思った」
「どれほど驚いたか、私たちは昨日の夜は、体が震えてブルブル震えながら寝ました」という言葉に、顔をあげることができませんでした。
「それで、昨日はどこに行って来たのですか」と、池承道お母さんが尋ねました。お父様が誰にもお父様に会ったという話をするなと言われましたので、私は事実を申し上げることができませんでした。

「申し訳ありません。友人が突然訪ねてきて、その家に行ってきました」と答えました。そしたら池承道お母さんは火のように怒りました。
「きのう先生にお会いしたんじゃないですか。私はすでに神様から先生が大邱に来られるという啓示を受けました。姜伝道師は、きのう先生にお会いして来たはずでしょう?しかし、なぜ私たちに先生にお会いしたことを隠すのですか?私たちは、北韓のときから先生に従ってここまで来た者です。私たちにまで先生に会ったことを隠すなんて....どうしてそんなことができるのですか?」と言われながら、大変私を責めました。

申し訳ないという心の片隅では、「お二人はいつも変わりなく信念と確信に満ちて神様とお父様がどこにおられるのか、何をされるのかすべてを知っておられるのだな」という羨(うらや)ましさも感じました。神様とお父様をいつもまず考えて侍る生活をしていた方だったからです。

そんな生活の中でも李耀翰(イ・ヨハン)牧師は、いつも信仰的でした。毎日追われる生活をしながらも、部屋一つ、台所一つも備えられていない家に住みながらも、いつも肯定的でした。


▲お父様と李耀翰先生

我々は、このように追い回されていますが、もう少し時が経てば御旨が成され、私たちが住んでいたこの家の柱がどれほど貴い柱になり、この家がどれほど貴い家になるでしょうか?ずっと後になって、私たちの後輩たちや歴史家たちが私たちが経て行ったこの場所を探し求め、私たちの路程をたどる時が来るでしょう」と言いました。

大邱(テグ)に崔夫人が来て、お父様と私たち一行を警察に通報したため、私たちはいつも追われる人のように暮らしました。罪を犯した訳でもないのに、常にびくびくする生活でした。変わった人​​が現れたら、まず隠れ、後をつけられていると感じたら路地に入ってしばらくして出てきたりしました。間違ったことをした訳でもないのに間違ったように、罪がないにもかかわらず罪があるように、息も大きくできず追われながら暮らしました。

明日がどうなるかわからない生活の中でも、将来はこのような生活が歴史になるという李牧師の言葉が私に感動と力を与えました。それで私は、「李牧師は本当に信仰がありますね。どうしてこのような難関でもそのような考えが出てくるのかと、尊敬します」と申し上げたこともあります。それほど当時の私たちの生活が大変でした。そして、大変だとは思いながらも、「お父様に侍る私たちがいくら大変だといっても、お父様の困難に比較することができようか?お父様はどれほど困難か?」と思ったら、涙があふれました。

今、振り返って考えてみると李耀翰(イ・ヨハン)牧師の言葉のように昔の苦労が貴い歴史として残るようになりました。今、昔に帰ろうとしても帰ることができない過去の思い出です。

大邱(テグ)で苦労して暮らしましたが、お父様と一緒に食事もして家族のように過ごしました。夢のような日々でした。ある日、夕食の準備を始めようとしたら、外で、「カニ売り!…カニ売り!」という声が聞こえました。ちょうどその時、少し余裕があったので出て行ってカニを買ってきて夕食を一緒に食べました。お父様と李耀翰牧師が一緒に箸でカニの身を取り出しながら召し上がられたのですが、お父様が、「ああ、このカニが姜賢實の手ぐらい大きいな​​」と言われ、しばらく笑ったことがいまだに思い出されます。


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