シャボン玉のブログ

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削除された姜先生の回顧録(第2部)その12 出監と青坡洞時代

私の証拠的生涯(=主を証しする私の生涯)
韓半島に降臨された再臨主

 姜賢實(カン・ヒョンシル)

第2部  ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
 ● 御言葉を宣布する生活
  
▲  出監と青坡洞(チョンパドン)時代
 
1955年10月4日、西大門(ソデムン)刑務所からお父様が出監されました。私たちは3カ月の間、孤児のように過ごしてから父を取り戻した立場なので、その喜びは言い表すことができませんでした。



お父様は出るとすぐに奨忠洞(チャンチュンドン)から青坡洞(チョンパドン)に引っ越しされることを急がれました。それで出監されてから三日目の10月7日に青坡洞1街71-3番地に引っ越しをすることになりました。

青坡洞で過ごした時のお父様は、私に一日に三軒を通いながら証ししなければならないと言われました。私はお父様の指示どおりに一日に三軒以上訪ね回りながら御言葉を伝えました。

しかし、一日に三軒を訪ねることが思ったより難しかったです。昼食として食べるパンをかばんに入れ訪問伝道するのに、門も開けてくれない家が多かったです。門を開けても、「統一教から来ました」と挨拶をすると、ある家では、悪口を言い、またある家は棒を持って出て叩きもしました。さらには、バケツにあった水をかけながら、「この異端児!」と言って追い出しもしました。

ある日は、水の洗礼を受けて、全身がびしょびしょに濡れて他の家に行くことができませんでした。心まで力が抜け教会に戻って来ましたが、申し訳ない気持ちでお父様に報告も捧げることができず、部屋の隅に隠れてうずくまって座っていました。

ところが、お父様が、「姜賢實!どこへ行った?」と探されました。私の小さな声で、「ここにいます」と言ったら、「なぜそのように隅に隠れているの?」と聞かれました。私はさらに小さな声で、「今日は昼に伝道に行ったのですが、水の洗礼を受けたので、伝道は止めて三軒をみんな回れずに帰って来ました」と報告を差し上げました。するとお父様は、限りなく優しい声で、「今は難しいが、必ず栄光の日が来る」と慰労して下さり励ましの言葉を下さいました。

ある日には郊外に出て行きたくなり、道峰洞(ドボンドン)に行くことになりました。その日も、「神様、導いてください」と祈祷をして出発したのですが、ある家に入りたくなり入って行きました。

すると、綺麗な主人のおばさんがあまりにも嬉しそうに迎えるのでした。「どうして私をこのように喜ばれるのかな?」と思ったら、「私は教会に通う執事(チプサ)です。ところで、今朝、祈った中で大切なお客様が家に訪問するから食事のもてなしをよくするようにという声が聞こえてきました。それで食べ物を準備しました。しかし、今日大切なお客様が来なかったらどうしようかと思って、私たちの教会の信徒たちを呼びました。それで、ちょうど食べ物を食べようとしたのですが、先生が来られたのです」と言いました。

それで見てみると、信徒たち数人が来ていました。そして精誠を込めて準備した料理が食卓に並べられていました。そして食べ物を一緒に食べながら、今日(こんにち)の時についての御言葉を話したところ、みんなが感動を受けて喜びました。

「私たちが時を知らずに信じれば不幸な者になります。二千年前にイエス様の当時にもユダヤ民族がどれほど来られるメシアを待ちましたか?待ちましたが、時代を知ることができず、神様が願わない信仰の道を行ったので、イエス様を理解することができず失ってしまいました。私たちも再臨主を待っていますが、この時代に合わない信仰の道を行けば、主を迎えることができないかもしれません。どの雲から雨が降るか分からないように、主がどのように来られるか分かりません。もし乞食として再臨しても、我々は喜んで迎えることができる心構えを持つべきです。また、非常に卑賤(ひせん)な立場で来られても侍ることができる心構えが必要です。したがって、常に我々は穏(おだ)やかで謙遜な心を持って再臨のイエス様を迎え入れることができる心構えが必要です」。私が話している最中にも感動して、信徒たちが「アーメン、アーメン」と言いながら一つの心になりました。

帰ってきてお父様に報告差し上げたら、「今の時は心の扉を開いておけば、いくらでも新しい御言葉を受け入れることができ、道も開(ひら)ける時代になった。そんな恵沢を得ることができる時がきた」と言われました。そのように御言葉を伝える生活を8カ月ほどしました。 

1956年6月10日、私はお父様の命(めい)を受けて大田(テジョン)に開拓伝道に発ちました。大田に発つ時には、私はやる気が充満して希望に燃えました。盧東輝(ノ・ドンフィ)先生が御言葉を聞いて感銘を受け、大田にあった自分の家を教会に捧げました。いつも泊まる所なしに伝道に出て行ったのに、すでに準備されている教会が私を待っていると思うと心がわくわくするほどでした。

ところが、その家に到着してみると盧東輝(ノ・ドンフィ)先生の友人がその空き家でダンスホールをしていました。その友達が簡単に家を空けてくれませんでした。仕方なく40日の間、下宿を定めておいて伝道しました。

そのように下宿に泊まりながら市内を歩き回って伝道しましたが、思うように伝道がうまくいきませんでした。より切ない神様の心情が体恤されました。神様が子女を失ってしまってどれほど切なく悲しまれたかを感じ、胸が締め付けられました。

私は毎日大田(テジョン)市内を七周回り大田復帰の為に祈りました。道を歩く時、「神様が行かれた道もこのように険しい道であり、私たちの真のお父様が行かれた道もこのように、険しく困難な道であられたな。神様はそれを知れと、私にこのような道を歩ませられるのだな」と思いました。「どれほど辛かったか、どれほど凄まじい事情が多かっただろうか?」という考えに涙もたくさん流しました。今も大田のことを思うと、神様の痛い心情を多く体恤した所であるという思いが浮かびます。

幸いなことに40日が過ぎると盧東輝(ノ・ドンフィ)先生の友人が家を空けてくれました。その後、毎日のように大学の正門前に立って、学生たちを伝道しようとしてある一人の人に会って原理講義をしてあげました。その人が別の大学生を連れてきて講義を聴くのですが、ある日は8時間一カ所に座って講義をしたこともありました。当時、お父様に捧げた手紙があり、ここに添付します。
 
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 先生に捧げます。 

その間(かん)も、御旨の中で萬寿無疆(ばんじゅむきょう/ 健康でいつまでも長生きすること)であられることを願います。摂理なさるのに、大きな栄光の光が満天宙に照らされ、いつしか地上の全人類は再び新しい生を受ける喜びを心と体で表すことでしょう。

忘れられない7月、昨年7月4日に地上の悪魔たちが総動員され、天の役事を抑えようと侵入したその日が思い出されます。神がそのようにさせて任せられた、天の役事を誰が破綻させることができましょうか?

御言葉で語られ経綸されたので、完全に勝利されることと信じます。今では英国から来たヨホスア(ジョシュア)氏と共に全食口が喜び、私も喜んでいます。

大田で御言葉を聞いて食口になる方が10人余りいます。場所の問題で正式な集会はできていません。7月10日まで家を空けると言いましたが、まだ分かりません。統一教会が大田に教会を建てることが、すでに噂が広がって既成教会で騒いでいるようです。今後、興味深い結果が示されるものと信じ任せて、毎日外に出て御言葉を伝えて、夕方には訪ねて来る方々に講義しています。新しい御言葉が表われる所ごとに喜びがあり、希望があり、能力が共にあります。既成教会の信者たちの中には、イエス様を新しい心で信じなければならないと告白する人もいます。

明日は全食口たちが集まって7月4日に入監された日を記念し、新しい出発に拍車を加えながら新しい勇気をもって、地上に現れた再臨主を証しする真(しん)の姿を全世界に見せてやる日になることを祈ります。

今、私は一人で孤独な立場に処しているので、お父様が毎日現れて見せて下さり教えて下さり、同行・同事・同役しておられます。御旨と愛が共にあられることに感謝を捧げます。 


同事:<仏教>仏が重生と共に喜びと悲しみも共にして導く
同役:<キリスト教> 宣教などの仕事を共に遂行すること


1956年7月3日、大田(テジョン)にて
姜賢實(カンヒョンシル)拝(はい)
 

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1957年7月20日、第1次公式40日開拓伝道期間に全羅南道(チョルラナムド)光州(クァンジュ/こうしゅう)に行くことになりました。朴ミンスクさんといっしょに発つことになりました。その時、李康七(イ・カンチル)勧士(クォンサ)が光州が自分の実家ですと言いながら、光州の復帰のための部屋を得なさいとお金を献金してくれました。それをもとに部屋を得て新たな心情で伝道を始めました。多くの人々が御言葉を聞いて喜んだし、困難でしたが少しずつ結実が生じました。


しかし、光州でも引っ越しを何度かしました。ある時は保証金もみんな踏み倒される場合もありました。その時はあまりにも驚きすぎて気絶をし、病院に運ばれたこともありました。


それでも、光州では学生が多く伝道されました。その中で一人の男子生徒が御言葉を聞いて、最初はこの道を行くと言いましたが、少し時間が過ぎると勉強もしなければならなくなり、忙しくて公的な道を行けないと言いました。まるで天が崩れるように心が痛みました。諭(さと)し励まし、また精誠を捧げて再び決心できるようにしました。その後、彼は御言葉どおりに生きようと努力し祝福も受けました。その学生を導き養いながら、神様が一人の人を育て導いて来られる事がどれほど大変なことかを感じることができました。


「一人の人の心さえも神様に向かわせる事が本当に難しい。六千年の復帰摂理の役事をして来られた神様は、どれほど多くの困難を経て来られたか?そして、肉身をまとい、神様を代身して現れたお父様は、どれほど大きな困難を耐えて来られただろうか?これらすべての困難を克服した先生を見本としなければならない」と思いながら、光州(クァンジュ)を開拓しました。光州には長くいて、木浦(モッポ)まで行って説教をしたりしました。


全羅南道(チョンラナムド)を巡回しながら、順天(スンチョン)に行ったことが思い出されます。順天は、教育都市であるうえ、水が綺麗であるのが良くて、印象が深かったです。手足を洗って座ってみると通り過ぎる人々は皆、顔が美人でした。整った顔の肌は真っ白に桃の花が咲いたように頬が赤く美しく見えました。ですから、通り過ぎる人々の顔を見ながら、「ここは水がいいので、他の地域の人々よりも人が綺麗なんだろう」と思いました。


後でお父様に、「順天(スンチョン)は水が良くてそうなのか、人々が皆綺麗で、美男美女が多かったです」と報告を捧げました。そうしたらお父様は、「何、水がいいからそうだと?姜賢實の心情が最高度に達したから、みんな美女に見えて美男子に見えるんだよ。心情が良ければ見るものすべてが美しく見えるんだね」とおっしゃいました。



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