●二代王「死の覚悟をしながら按手を受けるのです」2019.2.20
●死の覚悟をしながら按手を受けるのです(日本語, 4分)
二代王:
先週、レビ記1章の内容をみながら、聖霊の按手を受ける時、どんな態度と内容で受けるべきか、見ました。
その捧げる祭物の最後の瞬間がまさに按手の瞬間です。
按手を受けて直ちに首を切ります。その死を覚悟する心で、死のうとする者は生きる、そのような態度と主の前に愛と忠誠で出ていく祭物の心、そういう事を学びました。
そういう態度と心で按手を受けるべきであって、神様を試してみるために按手を受けよう、あれこれ治療したけれどダメだから神様を試してみようと、そういう者はむしろ呪われるかもしれません。テモテ書において、按手を注意深く与えよという言葉が出てきます。これは按手をだれにでも与えるものではないという事です。
按手はハナニムの道具となり、ハナニムの意志を広めていく事のできるそのような祭物を捧げる時間、重要な儀式の瞬間であります。
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<引用された聖句>
(韓国語改訳改訂聖經の日本語訳)
▼ティモデ前書(テモテ第一の手紙) 5章22節
誰にでも輕率に按手せず、他人の罪に干涉せず、あなたの自身を守り貞潔(ていけつ)にせよ。
▼レビ記1章
ヨホワに礼物を捧げたいなら家畜の中で牛や羊で礼物を捧げなさい。燔祭物の頭の上に按手しなさい。
その者はヨホワの前にその雄牛を屠(ほふ)ると、アロンの子孫の祭司長達は、その血を会見の会幕門の前祭壇四方にまくのであり、その者はまた、その燔祭物の革をむき各部を切り取り祭司アロンの子孫は祭壇の上に火をつけて火の上の木を広げておいてアロンの子孫の祭司たちは、その切り取った各部と頭と油を祭壇の上の火の上にある木に広げて置くのである。
※日本の聖書では「按手」の言葉の代わりに「手を置く」と訳されている事が多いです